雨が止むまで



せめて雨がやむまでは、抱きしめていてほしかった。

私が彼女と別れたのは、おりしも彼女と出会った花屋の軒先だった。
私のアパートから、彼女の歩幅で7分で、私の歩幅で10分の花屋。
一つの傘の下でたっぷり10分歩いてから、
私たちは最初からきまっていたみたいに、この花屋の軒下で雨宿りをした。
私は何もしゃべらなかった。何か言いたいことはたくさんあるような気がしたけれど、
何を言えばいいのかわからなかった。
彼女も黙ったまま傘を閉じる。
私の私物である赤い水玉模様の傘は、小さい。小柄の私に大きな傘は必要ないから。
それでも彼女の左肩が濡れているのを見て、私はもっと大きな傘を買っておけばよかったと思った。

雨は依然と穏やかに降り続けている。

いつもふわふわしているベリーショートの彼女の髪が、すこし濡れていた。
私の髪も、濡れている。

私たちは依然と一言も発しない。

シャッターの閉まった花屋の軒は作りが古いのか雨漏れしていて、
さして雨宿りになっていないようなきがしたけれど、
とにかく私たちはそこでようやく向き合った。
彼女はだまったまま私を抱きしめた。小柄の私より、ほんの少し背の高い彼女。
彼女の首筋から雨の香りが強くした。

「愛してた。」

彼女は一言だけそう言った。少し低くて、おだやかな声だった。
それから、最後のキスをして、傘を私に握らせた。
そして、あっさり、いってしまった。濡れながら、小走りしていってしまった。

もっと、声を聞いていたかった。何か言えばよかった。でも何も言えなかった。
彼女の背中はすぐに霧雨の向こう側に消えてしまって、あいかわらず私は何も言えずにいた。
どうしても声にならないから心の中で、行かないで、と叫んでみる。
涙は出なかった。その変わり、雨が降り続けていた。
空に先に泣かれてしまったから、私は泣けないのであって。
雨がやむまで抱きしめていてほしかった。そうしたら、こんなふうに、
涙が出なくてつらい思いなんかしなかったかもしれないのに。
彼女のいないことを強く感じながら、私は一人立ちつくしていた。

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