アンナのボルシチ



内腑までも凍えるようなマロース(極寒)と、低く垂れこめた空に押し込められるようにしてその家は建っている。
私はしっかり着込んだコートの毛皮に首をうずめて、静かに、そして丁寧に呼び鈴を鳴らす。
吹雪いてはいないが、目に映るものは全て凍りついているようであり、生きものの鼓動は感じなかった。
唯一それを感じることのできるものを探すとしたら、小さな窓から漏れ出す暖炉の灯りくらいのものだ。

アンナに会うのはいつぶりだろう。私はイワンが死んだ時ですらこの街に帰ってはこなかった。
あれ程親しかったイワンの葬儀にも出られなかったのだ。アンナは怒って私を快く招いてはくれないかもしれない。
呼び鈴を鳴らしてからの、永遠に思われる一瞬の間、私はそんな気がかりにすっかりとらわれていた。
しかし私の予想に反して、扉に向こう側にいたアンナは私の顔を見て、ひとつ驚いたように黙り込んでから、ぱっと顔を輝かせた。
彼女のチャームポイントであるピンク色の頬をさらに紅くして、歓声とも奇声ともとれぬ声を出したかと思うと私の胸に飛び込んでくる。

「エカテリーナ!」

私の名前を読んだぎり、彼女はすっかり言葉を失ってしまったようだ。ただ、私の胸元にぐいと顔をおしつけてくる。
私はアンナの肩に手を置いて、私に出来得るかぎりの優しい声を出してやる。

「アンナ、中に入りましょう。身体が冷えてしまうよ。」

顔を上げたアンナは、頬だけではなくて人より少し高いその鼻も真っ赤に染めている。
私はアンナを半ば抱きかかえるようにして、彼女の、いや正確には、彼女とイワンの家に入って行った。


「連絡を入れてくれればよかったのに。おもてなしの準備が出来ていないわ。」

すっかりいつもの調子―――といっても、私が彼女の「いつも」を知っていたのは数年前までの話だが―――を取り戻したアンナは、
慌ただしげにいくらか部屋を片付けて、サモワールで熱くて濃い紅茶を淹れてくれる。なんだか懐かしい味がした。

「すぐに夕食よ。あなた、突然くるんだもの。大したものは出せないわ。」

アンナはなんだか私と居るのが落ち着かないみたいだ。何も話さないうちに夕食の準備に立ってしまった。
当然といえば当然かもしれない。確かに私たちはまるで姉妹同然に育ったけれども、そうした仲に終止符がうたれたのはあまりに唐突だったし、しかもとても一方的だった。
私だって、どんな面を下げてアンナの前に出ればいいのかさんざん悩みながらここにきたのだ。
しかし、この狭く山に囲まれた街から逃げ出したのは私なのだから、彼女が何かを気まずく感じる必要なんかないのだけれど。


アンナの心づくしのお手製の料理は、彼女の言葉には反してたっぷりとしていた。
きっとありもので、出来得る限り豪勢に仕立ててくれたのだろう。
野菜と牛肉を煮詰めたボルシチ、ニシンの燻製、クレープ生地にサワークリームを包みこんだブリヌィや
小麦生地にひき肉をつめたクレビャーカ、ピクルス、そしてヴォトカ。

私はまっさきにボルシチに口をつけた。ひどく懐かしく感じた。
ボルシチはアンナが彼女の母から受け継いだ料理で、アンナの母のボルシチが好物だった私は、そのままアンナのボルシチの一番のファンになったのだ。
トマトやビーツ、じゃかいもやたまねぎをじっくりと煮詰めたアンナのボルシチは素材がすべて溶け合って、野菜の甘みが、まるで春先に花が開くようにほろりと口の中でほどける。
私はようやく、ああ、帰ってきた、と思った。

「エカテリーナ、ヴォトカを飲むでしょう?」

すっかりボルシチに夢中になっていた私はアンナの声で顔を上げた。向かいの席でアンナが身を乗り出して、ヴォトカのボトルを私のグラスに向けていた。

「ええ、ありがと。」

私たちはグラスにつがれたヴォトカを掲げて、お互いの目を見て微笑んだ。ようやく数年前の私たちに戻ったような心地が私にはした。

「再会に乾杯。」
「乾杯。」

ヴォトカを一気に飲み干すと、度数の高いヴォトカは食道を焼くようにして胃に下っていく。
まだ寒さが身体の中心にこごっているような気がしていたが、ヴォトカがそれもすっかり溶かしつくしてしまったようだ。

ヴォトカを飲んだせいか、今ならアンナとなんでも話せるような気が、私にはした。
しかしヴォトカの熱はこの国の冬で十分に冷ましたはずの、ずうっと昔の狂おしい熱を蘇らせてしまうかもしれない。私はふとそんな事を考えた。私はゆっくりと口を開く。

「イワンは…。」

情けない話だ。イワン、そう言った私の声は、ひどく頼りない声だった。
私は、ひとつ咳払いをして肚に力を込めた。

「イワンは、私の事を何か言ってた?」

一瞬にしてアンナの目には悲しみの色が広がった。雪みたいに静かな悲しみだ。

「いつかまた三人でヴォトカを飲みたい、そんな風に言っていたわ。でも、イワンはあなたが出て行ってしまった理由をすっかり分かっているみたいだった。」
「そう…。」

私は優しいボルシチを口に含む。

「イワンは、裏切ったのは僕だと、そう言っていたの。」

アンナの目が私に問うている。私とイワンの間に起こったことをアンナは知りたがっているに違いない。

「そんな風に言うなんてイワンらしい。そんな目をしないで、アンナ。私はイワンに裏切られたわけじゃない。私たちは喧嘩したわけじゃない。
私が逃げ出しただけなのよ。」

この生まれ故郷は、レナ川流域の、ロシアの中でもさらに寒冷な地域にあるばかりじゃなく、険しい山間に家々が肩を寄せ合うようにしてひっそりと密集している。
山の中で時代に置き去られ、古い考え方が凝り固まっている土地が、息苦しかった。
いつか厳しいミチエーリ(吹雪)がやってきて、雪でこの街を埋め立ててしまうだろうと怯えていたのだ。
イワンとアンナの結婚は、だからかねてからの脱出の計画を実行する契機でしかなかったのだと、私はアルコール度数の高いヴォトカを飲んでそう自分に言い聞かせる。

「このヴォトカはイワンが好みそうな味だね。」
「そうやってあなたたちはいつも話をはぐらかす。そういうところ、そっくりだわ。」
「イワンと私をそっくりだ、なんていうのはアンナだけよ。」

私は笑う。幼いころから、私とイワンは対照的な存在としてしばしば大人たちにからかわれた。
女の子らしくない、乱暴な言葉を使い元気に走り回る私と、病弱で、本ばかり読んでいたイワン。
一見接点のなかった私たちをつないでいたのはアンナ。私たち三人は幼いころからとても仲が良くて、いつだって三人で遊んでいた。
だからアンナだけが、私とイワンの趣味がそっくりなのをよく知っている。
喧嘩ばかりしていた私は、家が貧しかったから本を買ってはもらえなかったが、本当は物語が大好きだった。
しばしばイワンに本を借りて、恥ずかしいからこっそり隠れるようにして読んでいたのだ。
病弱ですぐに身体を壊すイワンは、実はスポーツが大好きだ。一緒にカーリングを見に行った時のイワンの興奮ときたら!
彼はいつも自分の体が思うように動かないのを悔しく思っていた。
私とイワンはとても気が合う親友だった。親友だったのだ。

「あなたたちはいつも私の入りこめない空気をただよわせていた。」
「そうかしら。私の一番はいつだってアンナよ。」
「それでも、たまにあなたとイワンが何を考えているのか分からなくなって、怖かったのよ。」

もうすでにアンナは酔い始めている。そうだ、アンナは酒に弱いのだ。
私とイワンはべらぼうに強かった。私たちはいくらヴォトカを飲んでも酔わなかった。
そうだ、あの夜もアンナだけが酔っぱらって寝てしまったのだ。
アンナが酔いに目を潤ませて、つぶやくように言う。

「私、きっとあなたとイワンが結婚するだろうって考えてた。」
「まさか。」
「本当よ。私おいていかれるってとても怖かった。だからイワンにプロポーズされた時、耳を疑ったわ。でも、本当は…。」
「勘違いをしているよ、アンナ。」

アンナは悲しそうだった。それでも私は何も言う気はなかった。言えない、言えない。
でも、確かにアンナは勘違いをしている。彼女は私とイワンが愛し合っていたのだと、そんな風に考えているのだ。

「ねえ、あの夜何があったの?」
「あの夜、ってなんの事?」

私はヴォトカを飲んでとぼけてみせる。飲むペースが、どうもはやくなってきたようだ。

「わかってるでしょう。イワンが私にプロポーズをした前の晩の事よ。あなたが出ていってしまう前の最後の酒場での事。」

そう、あの夜もミチエーリが止んだばかりで、凍えるような寒い夜だった。
私たちは身体を温めるために、酒場でヴォトカを飲み交わしていた。
アンナはいつものように早々に酔っぱらってしまって、私とイワンの二人でいつまでも、まるで何か争うようにヴォトカを呷っていた。
その日のイワンは、少しおかしかった。始終考え込んだような顔をしていたように記憶している。
二人きりになると彼は、神妙な顔で私に告げた。

「僕はあした、アンナに結婚を申し込もうと思うんだ。」

私は、息をのんだ。
たぶん、その時のイワンの表情が純粋な喜びに満ちていたり、あるいは一世一代の告白にむけてこわばっていたりすれば、
私は自分の気持ちはヴォトカと一緒に飲み見下してしまって、ずっと自分の胸の内に秘める事を誓っていたと思う。
しかしイワンの顔には、憐れみとそれから、私に対する優越感が、ほんのひと匙混ぜ込まれていた。
私は初めてイワンを憎いと思った。私の気持ちにイワンが気づいているのだと悟り、憎くて、悔しくて、羨ましくてたまらなくなってしまった。
腹の中のヴォトカが一気に熱を取り戻して、胃の中でごうごうと燃えているようだった。

私は渾身の力でイワンを殴った。

ヴォトカのボトルやグラスが割れて、イワンの眼鏡がはじけ飛んだ。身体の細いイワンは静かに立ち上がると、口元を拭った。

「すまない、エカテリーナ。でも、僕ならアンナを幸せにできる。なあ、そうだろう?」

私は親友を刺してしまう前にこの街を出ることを決意した。アンナには会わなかった。きっと自分をおさえきれなくなる。
モスクワに向かう道すがら、私の頭の中ではアンナとイワンの仲睦まじい姿が記録映画みたいに映し出されて、離れる事がなかった。
それからイワンの「すまない。」の声。
謝ってほしくなかった。それならまだ、鼻で笑われた方がましだ。僕はどうどうとアンナと一緒になれるのだ。そう自慢されたほうが、ましでしょう?



あの夜を思い出して頭を抱え込んだ私の目を、心配そうにアンナが覗き込む。

「大丈夫?あなた、飲みすぎじゃない。」
「いいや、大丈夫よ。私がお酒強いの、知ってるでしょう?」

私は近寄ってきたアンナの顔を避けるように、顔を上げた。
彼女の体温を近くに感じてしまうと、自分に歯止めをきかせる事が出来なくなりそうで怖かった。
人肌恋しくなるような、こんな芯まで凍える寒さの夜は特に。
私はすっかり冷めてしまったボルシチに目を落とす。
イワンと私の趣味はそっくりだ。好きなものはいつだって同じ。
じっくり煮込んだボルシチ、冒険の物語、氷の上でのカーリング、暖かい暖炉、冷えた夜に飲むヴォトカ、それから、それから…。

イワンは何を考えていたんだろう。結婚式にも出ないで、後味悪くこの街を出た私を恨んでいただろうか。
イワンの主張は十分に理解できる。アンナがプロポーズを断らないと分かっていたから私は街を出たのだ。
愛し合う二人は一緒になるべきだ。私は多分、邪魔だったのだ。

ふと思い出すようにアンナが口を開いた。

「私ね、イワンにもあの夜の事を聞いたことがあるのよ。あなたが出て行ってしまうのはきっとイワンのせいだとそう思って、彼を責めた。
彼は否定しなかった。ずっとあの夜の事を口にするのを嫌っていたわ。でもね、イワンが病床についてから、一度だけあの夜の話になった。
彼は一言、僕はエカテリーナを、ヴォトカの瓶で殴り返してやればよかったんだ、って言ってた。
僕は彼女の気持ちを分かっていなかったんだ、ってね。そう、それでね。」

アンナは立ち上がると、一冊の本を持ってきた。
一目見て分かった。それはイワンが幼いころから大事にしていた冒険譚を集めた本。私もこの本が一番のお気に入りで、何度も貸してもらった。
イワンは私が気に入った本をくれる事がよくあったが、この本だけはどうしても譲ってはくれなかった。
イワンが何かを主張することは、とても珍しかった。

私はアンナに本を渡されて、それを懐かしさとともにペラペラとめくった。
読みこまれた本はあちこちよれていたけれども、愛情に満ちているような気がした。
最後のページに、イワンの書き込みがある。私は何か、妙な落ち着きを持ってその書き込みを見つめていた。

「親友のエカテリーナへ。

どんな男より大酒飲みのエカテリーナ。どんな男よりも強烈なパンチを持つエカテリーナ。
僕はいろいろ間違っていたよ。それでも僕は精いっぱいアンナを愛した。
悔しいけれど、後は僕が口出しする権利はないね。
後はよろしく。これを読んでいるという事は戻ってきたんだろう。
君がボルシチとヴォトカと、それからアンナなしで生活できるだなんて思えないからね。

今回は君に譲るけれど、いいね?僕は君に、勝ち逃げをするんだ!
勘違いするなよ、親友。     

イワン」





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※サモワール…主にロシアで使用される、紅茶を入れるための道具。
※ヴォトカ…ウォッカのこと。