ビター・チョコレート



真白な壁の生活感を感じさせないその一室は、一分の隙もないように思われた。
樫の扉の隣に置かれた重厚な本棚に納められた本の数々でさえも、それはそこにあるべきものとして配置されたかのような、
いっそ不自然なほどの完璧さをもって存在していた。
私が座る革張りの、ワインレッドの色をしたソファの光沢だけが、妙に艶めかしく私の目に映る。
潔癖といえるほど整理されたこの部屋に、薄汚い私は拒絶されているかのような感覚を覚える。
私が目の前に座る女の方に眼をやると、女は頬にうっすらと笑いを浮かべてじっとこちらを見つめていた。
いや見定めているのだろうか、そう思えるほど女の眼は怪しげな光で満ちていた。
女の唇が印象的だった。真っ赤にひかれたルージュは、女の白い肌と対照をなして、私の目の前にぼんやりと浮かんでいる。
しばらく沈黙の中で見つめ合った後で、女はようやく口を開いた。

「どうしたの、緊張しているの。」

一見気遣うようなその言葉は、実際からかいの言葉であると私にはすぐに分かった。女の言葉尻が弾んでいたせいだ。
私は何も答える事ができない。口蓋に舌がぴったりとへばりついて、喉に重しが乗っているかのような奇妙な感覚を覚える。
女は真っ赤な唇の端をさらに持ち上げて、今度はくすくすと笑った。
私が何も言えない事を女は知っているかのようだった。それだけでなく、実際のところ女は私の全てを見透かしているのではないかとすら感じる。
私はたまらなくなって、目の前のテーブルに視線を落とした。一点の曇りもないガラスの机の上の中心に、完璧な配置で灰皿が置かれている。
その隣に銀紙で包まれた、おそらくチョコレートであろう菓子、それらが小山をなしている皿。
そしてさらにその脇には、金色に光るネクタイピン。
私はそのネクタイピンをみると、胸が変な軋み方をするのを感じた。
おかしい、私がこのように胸を痛めるなどという事は。
下唇をぐっと噛んだ私を見つめたまま、―――おそらく見つめていただろうと私には思われる―――女は皿に盛られたチョコレートを一つつまんだ。
女の右手の甲には青い血管が浮いていて、チョコレートをつまむその人差し指と親指は驚くほど細かった。
私はもう一度女の方を見る。女は相変わらず笑ったまま、銀紙を丁寧に剥いて、チョコレートをその真っ赤な唇へと運ぶ。
女が何も言わないまま、私も何も言えないまま。
女はチョコレートを食べ終えると、立ち上がって私の方へ近寄ってくる。
そして私の左足の太ももと、女の右足の太ももがぴったりとくっつくほど近くに腰を下ろすと、私の右肩を左手でつかんだ。
その拍子に、女の左手の薬指で鈍い光を放つ指輪の存在をあらためて見せつけられて、私はさきほどの胸の軋みが一段と激しくなるのを感じた。
女はそんな私の様子に気づいているのかいないのか、はたまたそんな事に興味は全くないのか、
とにかく相変わらず笑みをたたえたまま、その赤く熟れた唇を私のそれに寄せてくる。
胸の内がひどく暴れていた。それでも私は女にそれを悟られまいと、なるべく身体を寄せないようにキスをする。
女の唇はとても甘かった。
それは、きっと、チョコレートのせい。
また同様に女の唇は、少しだけ苦みがある。
それは、きっと、チョコレートがビターだったせい。
私がその甘みと苦みを貪っていると、不意に外から車のエンジン音が聞こえる。
予想外に大きなその音は、私たちの唇が立てる湿った音以外は何の音もしなかったこの部屋の空気を、一瞬で切り裂いた。
ビクリ、と肩を震わせた女は、とても素早くその唇を離して私に背を向けた。
車はそのままこの家を通り過ぎて行ったに違いない。エンジン音はやがて遠ざかっていく。
その事を悟った彼女は、その肩を少し落とす。
いま彼女は、一体どんな顔をしているのだろうか。それが気になった私は、彼女の肩に手をかける。
しかし私の手をふり払うかのように彼女は突然立ち上がると、くるりとこちらを向いた。
女は、また元のように妖艶な笑顔を私に向けていた。
私は途端に悲しくなった。口の中は甘ったるくて、それでいて苦かった。
それは、きっと、ビター・チョコレートのせいだろう。



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