エス



校門をくぐると、バスケ部の掛け声とボールを床に打ちつける音が耳に懐かしく響いた。
皆「懐かしいね。」なんて口ぐちに言いながら足を進める。
私も久しぶりだなあ、って呟いてから、いや、実際のところそんなに懐かしくもないか、と心の中でちょっぴり訂正。
私たちはこの春この高校を卒業したばかりで、今はまだ五月なんだから、それほど新鮮味なんかあるはずがないのだ。
ただ制服を着ないのに高校を訪れているというのが、なんだか奇妙だった。

私たちは、まっすぐグラウンドへと向かう。
気持のよい五月晴れの日の事で、きっと元気に走り回る後輩たちはたっぷり汗をかいていることだろう。

私たちは、女子サッカー部だった。
高校の時から至極仲の良かった私たち同期の付き合いは引退してからも、そして卒業してしまった今でも続いていて、今日もその延長上にある。
現三年生、つまるところ私たちの一つ下の代がもうすぐ引退試合を迎えるのだ。
それでちょっと顔でも見に行ってやろうかという話になり、大学生になったばかりの最初のこの連休に母校を訪れたというわけ。

私たちがグラウンドにひょっこり姿を現すと、まず一人の後輩が「あーっ!」と声をあげる。
なんだなんだ、その反応は。
もうちょっと他に、言うことがあるでしょうに。
その一人の叫びでこちらに気づいた後輩たちは、「あー!」っと唱和。
よく息が合ってらっしゃる。それが試合中も活かされればいいわね。
タイミング良く休憩中だったみたいで、後輩たちはばたばたとこちらに駆け寄ってきた。

「お久しぶりです!先輩!」
「せんぱーい。会いたかったー!!」
「先輩たち、大人ッスね。」

口ぐちにそう言う後輩たちの頬は、興奮で上気している。

私たち女子サッカー部は、とても厳しい部活だった。
練習の厳しさはもちろんの事、体育会系独特の上下関係の厳しさはより顕著だったように思う。
だから今こそこうして慕ってくれる後輩を私たちは何度も叱ったし、幾度もその涙を見てきた。
それと同時に、一つ、二つ年上の私たちは後輩たちを可愛がり、彼女たちの倍の涙を流した。
先輩というのはそういうものだと思うし、そういった繰り返しが今の私たちの関係を築いてきたのだとも思う。
現役時代に積み上げたこの関係のおかげで後輩たちは今も私たちの事を憧れと尊敬の眼で見てくれる。
こうして断言できるのは、私たちにも後輩だった時代があり、今でも先輩方を尊敬しているせい。
上にもらったものを下に返すというのは、体育会系の基本だ。
社会に出て「馬鹿げてる」なんて思うことがあるのかもしれない。実際現役時代馬鹿馬鹿しくなった事は一度や二度ではない。
それでも、私は自分のそんな高校生時代を案外誇りに思っていたりする。

「さき先輩!」

そう慕ってくれる後輩が私はかわいくてかわいくてたまらない。
こざっぱりとした性格のせいであろうか、部長を押し付けられた私は特に後輩たちに手を焼かされたものだ。
練習に出てこない子、うまくプレーできなくて心が挫けてしまう子、レギュラーになれない悔しさに泣いてしまう子。
そういった子の話を丁寧に聞いて、叱咤激励し、練習に付き合う。
当時の私は飽くことなくそんな事を繰り返していたっけ。
おかげで完全に「頼れる姉さん」というポジションを押し付けられてしまったわけだけれど。
それでもこうして今私の名前を呼んでくれる後輩をみると、やっぱりやってて良かったな、なんてしみじみ思ってしまうのだ。
私の本名は咲子というのだけれど、同期達がみんな「さき」と呼ぶからだろう。私は後輩から「さき先輩」と呼ばれていた。

「さき先輩!」

人一倍元気な声が聞こえたから振り向くと、雫がニコニコしながら立っていた。

「さき先輩、さき先輩。」

えへへ、って笑いながら連呼する。人の名前を連呼しながらニコニコほほ笑むってのが、雫のくせなのだ。

小柄で童顔の雫は、人気者。
男子にも女子にも、生徒にも先生にも。まさに老若男女ってやつか。
犬コロみたいに人懐っこい笑顔は男の子の胸を射止める事が多い。
でもそれで女子に嫉妬されるって事もない。
雫は底抜けに明るくて、しかも面白い太陽みたいなヤツだからいつでも皆の中心にいる。
部活でも雫はムードメーカーだった。部長の私は雫の笑顔や声かけに何度か助けてもらったと思う。
でも彼女は別にお調子者じゃなかったし、練習態度は至極真面目。
そのちっちゃな体のどこからってくらいの体力を持ってて、しかもガッツにあふれるプレーをする。
そんなわけで先輩方は皆雫を猫可愛がり。私も雫が、可愛くて仕方ないのである。

私は雫を見るといつも、犬みたいだなあと思っていた。
現役時代の私が部活に行くと、大抵誰よりも早く来て準備をしている雫は私の姿を見てこちらにすっ飛んでくる。
でも特に用事があるわけじゃないらしく、ニコニコと満面の笑みで私を見つめて「さき先輩さき先輩。」と私の名前を連呼して私についてまわった。
その様が、どうしても飼い主を見つけて大はしゃぎするワンコにしか見えないのだ。
雫は犬みたいだなあ、と私が言うと大抵雫は「さき先輩が飼い主なら犬になりたい。」と冗談交じりに笑ったものだ。





そうそう、ちなみに、雫は私の彼女でもある。
その関係は私が高校三年生の春を過ごしていた頃から今までずっと続いているけれど、もちろん、周りには内緒。




後輩と一通り談笑し、しっかり差し入れをマネージャーに託した私たちはグラウンドを後にした。
あまり長居してしまっては後輩たちも落ち着いて練習が出来ないだろう。もうすぐ引退試合なのだ。
私が他の同期達と笑いながらグラウンドを出ようとしたところで、「さき先輩!」と後ろから叫び声がする。雫がこちらに走ってきた。

「あらー雫忘れ物?」

同期が声をかけたけれど、雫は曖昧に笑って「ちょっとさき先輩に用事が。」という。私は彼女の意図を察して、他の子たちに先に行くように促す。
二人きりになると、雫は私のきていたシャツのそで口のところを引っ張って「今日行ってもいいですか?」とごくごく小さな声で聞いた。
私は「もちろん。」と頷く。すると彼女は太陽みたいな笑顔でパッと笑った。



私は大学に入ってから一人暮らしをするようになった。大学は別に実家からでも通えたけれども、せっかく大学生になったのだし、新しい生活というのをしてみたかった。
そして、不純な動機もある。一人暮らしのおかげで、自分の部屋で気兼ねなく雫と会えるようになった。
以前は家で会ったとしても親の目が、学校で会ったとしても友人の目が気になって、落ち着いて会うということがかなわなかったのだ。




それから同期の皆でカラオケに行って存分にはしゃぎ、笑って、ようやく解散した頃にはもう夕方だった。
もしかしたらちょうど部活が終わったころかもしれないな、と思って雫に電話をする。
案の定部活がちょうど終わった後のようだ。どうせなら一緒に行こうと私のアパートの最寄り駅で待ち合わせをすることにした。



のんびりと向かったつもりだが、早く会いたいと気持ちは急いていたのかもしれない。
思いのほか駅に早くついてしまう。雫はやはりまだ来ていなかった。
私は雫を待つ間、彼女と付き合いだしたときの事を思い出していた。



最初に好きになったのは、たぶん私の方だと思う。
それでも部活のメンバーとしての「好き」と恋愛の対象としての「好き」の境はひどく曖昧で、
多分雫もそうだったはずだから、どちらが先に恋愛対象として相手を好きになったのか実のところよくはわからないのだけれど。
とにかく最初にアプローチのようなものを仕掛けたのは私だった。
入部当初から雫はすごく目立つ存在だった。明るいし努力家だし気遣いも出来る。
当時二年だった私は一年の教育係をさせられていたのだけれど、一年生の雫にはとても助けられた覚えがある。
だから恋愛感情云々は置いておけば、最初から私は彼女の事が好きだった。雫も教育係だった私によくなついてくれていたんじゃないかと思う。
最初は後輩として平等に皆の事を大切にしていたつもりだった。
それでもいつのまにか雫の事だけを目で追っていることに気がついてしまったのはいつだったか。
なついてくれる雫に対する好意が純粋な後輩への愛情でなくて恋愛感情であると自覚したのは、私が三年生になったばかりの頃だった。
それでも私はそれを必死で隠し通した。女の子同士の恋が危険だということは私だって十分承知していたから。

三年生になってから引退までというのはあっという間だ。
二年で既にレギュラー入りしていた雫は引退する先輩たちの足を引っ張るまいと、もしかしたら三年の私たちより練習を頑張っていたんじゃないかと思う。


その日も、自主練するという雫に遅くまで付き合った。引退の近い五月の初めのことだった。
練習の後にお腹が空いた、もう一歩も歩けない、なんて雫が珍しくわがまま言うので、学校の近くにあるお好み焼き屋に入った。
一枚の豚玉を二人で分けてつつきながら、私はおいしそうにお好み焼きを食べる雫のことをじっと眺めていた。
そして、なぜなのかわからないけれど、つい言ってしまったのだ。

「かわいいなあ。食べちゃいたい。」

最初雫はきょとんとしていた。
ちょっと考えてこんでから口をひらく。

「お好み焼きを?」
「ううん。雫を。」

なんでだろう。今考えると末恐ろしいが、その時の私はひどく正直だった。
すると、雫はけろっと言ってみせたのだ。

「私、さき先輩になら食べられちゃいたいな。」

私はどきりとした。
その私の目の前には、はっきりと二又に別れた道が見えた。
ひとつは「またまたー。」って冗談として濁す道。
もう一つは。

「ほんとに私、雫の事好きなんだよ。」

私はさっきよりもずっと真剣な瞳で、彼女に告げていた。

「私も本当に好きなんです。」

彼女は豚玉をもぐもぐと噛み下しながら言った。
雫は、随分とさりげない口調だったけれど、今思えば彼女も緊張していたのかもしれない。
珍しくあの日の雫はわがままだった。
こうして、なんというかムードもかけらもない場所で、私たちは付き合うことになった。




あの時のことを思い出していたら、もっともっと雫がいとおしくてたまらなくなってきた。
早く会いたいな。
そう思った瞬間、後ろから肩をつかまれた。
振り返ると、雫がいる。
人懐こい笑みで「ごめん、おまたせしました。」って両手を合わせて謝った。

「ん、そんなに待ってないから大丈夫だよ。」

私はそんな彼女に笑い返す。
ああ、やっぱり好きだなあ、と思った。




私の住むアパートは駅からとても近い。それでも、私は駅からアパートまでの距離がもどかしかった。早く二人きりになりたかった。
私たちは特に何か会話をするでもなく、もくもくと歩く。途中で「手、つなぐ?」って聞いたら、雫はとてもうれしそうに笑って私の左手をきゅっと握った。
彼女の右手は熱く火照っていたので、もしかしたら私と同じことを考えているのかもしれない。

4階の私の部屋まで二人で階段で上る。エレベーターを使おうとしたら、雫がニコニコ笑って「階段使おうよ。」という。
早く、二人きりになりたい。私はそう思ったけれど何も言わずに彼女に従った。
私は胸の奥がじんじん熱くなってきたのを感じる。
早く早く早く。あの、雫の健康に日焼けした肌に指を滑らせたい。
私の気持ちはとても急いているのに、雫は鼻歌交じりにゆっくりと階段を上る。
もしかしたら早く二人きりになりたかったのは私だけ?
いや、私にそう見えているだけで雫はゆっくりしているわけじゃないかもしれないけどさ。

急ぐ足をなんとかなだめて廊下を歩き、401号室にようやく到着。
もどかしげに鍵を差し込みがちゃりと回す。ドアが、あく。

部屋の中に体をすべりこませた私達。
電気もつけないで、靴も脱がないままに、私は彼女に抱きついた。
もう我慢出来なかった。
薄い布越しに彼女の肉と体温を確かに感じて、私は興奮がますます高まるのを感じた。
私はもっと彼女に近づきたくて、もっと彼女と触れ合っていたくて、雫に唇をよせてキスをしようとした。雫も唇をよせてくる。

でも、キスをしようとした刹那、雫は少しだけ唇をずらしてわたしの頬の所にキスする。

「んもう・・・。」

私はちゃんとキスをさせてくれない雫に思わず不満を漏らす。
やっぱり階段を使ったのはわざとだな、とこの時私は確信した。
今度こそとばかりに彼女の唇にキスをしようとしたら、両頬を雫の両手でぐにっと挟まれた。
おかげで、私はそれ以上彼女に唇を寄せることが出来ない。

「なに、キスしたいの?」

雫はニコニコ笑いながらそう言った。その笑みは、昼間に「さき先輩」と駆け寄ってきたときのそれと表面上はそっくりだった。
でも私には笑う雫のその瞳が、ちょっぴり妖しげに光っているように見える。

「・・・。」

私が頬を挟まれたまま無言でいると、「ねえ。」と雫がせかす。

「・・・したいに決まってるじゃん。」

私がようやく小声で言う。すると雫は

「サキコ。」

とちょっとしかるみたいに私を呼んだ。

その言葉を聞くと私はなぜだかぞくっとする。
自分の名前を聞いて感じるのもおかしな話だけれど、普段人前では絶対そう呼ばない雫に呼ばれると、たまらなくどきどきする。

「・・・させてください。」

私がさらに小声で言うと雫は満足げに笑みを深めた。私は早くキスがしたくて焦れていた。
早く、と目で訴えると、やっぱり雫はニコニコしている。

「じゃあさ、あとで一個だけ言うこと聞いてくれる?」

雫はさらに質問を重ねる。

「言うことって何よ。」

私はもう我慢できなくなってきて、拗ねたように言い返す。
雫は相変わらず笑っていて、何も答えようとはしない。

「・・・もう。・・・わかったから。なんでもいうこときく。」

私が観念すると、ようやく雫は「よしよし」っていいながら私にとっても深いキスをくれた。
そのキスで体中がとろけそうになったのは、言わずもがなである。



私はあのお好み屋さんで確かに雫に、「食べちゃいたい。」と告げたはずだった。
そして雫も「さき先輩になら食べられちゃいたい。」って言ったはずだった。
私はあの時も「頼れるさき先輩」としての威厳は保っていたはずだし、雫はあの時も明るく元気で、そして謙虚な後輩だったはずだ。
どこで間違えたんだろう。間違えたというべきではないか。もしかしたらなるべくしてなったのかもしれない。

いつの間にか、敬語絶対の関係が崩れて二人きりの時はため口になり、呼び捨てされるようになり、日常の主導権が何かと雫に握られていた。
そしてふときづくとベッドの上の主導権もがっちり彼女が握っていた。10回に1回くらいは私も反撃を試みるけれど、大抵は返りうちにあう。
そして困ったことは、私がその事実にとても快感を覚えているということだ。
彼女のS性が私のM性を呼び覚ましたのか、それとも私の奥に眠っていたM性が彼女本来のS性を助長させたのか。
たまごか先か鶏が先か。
どっちでもいいけど、とにかく私はこの関係にぞくぞくしている。だって、外では「頼れるさきさん」って言う風にしか見られない。
でも、雫と二人きりの時は思い切り甘えられる。




「それにしてもこれはやりすぎじゃないかな、雫ちゃん。」

私はついついちゃんづけで呼んでしまう。
キスをして一心地ついた私たちは居間に入って、それですぐに、雫に両手を手錠で縛られたのだ。

「一回やってみたかったんだよね。言うこと聞くっていったじゃん。」

相変わらず雫の笑みというのには屈託がない。その健気な子供みたいな顔してけっこう酷いことを強要してくるからタチが悪かった。

「手錠はちょっとなあ・・・。」

私はちょっと甘えたようにお願いしたけど、案の定無視される。
それどころか、いっそうニコニコ笑いながらサラりと言ってみせる。

「そんな嫌そうなふりして実は縛られて興奮してるんでしょ。はやくしてもらいたいんでしょ。」
「そんなこと・・・・。」

・・・あるかも。
確かに体の内側で血が、それはもうどうどうと音を立てて流れ始めたのを感じていた。
やばいなあ。本格的にマゾになっているかもしれない。
私が顔を赤らめていると、不意に雫が私の胸の一番敏感なところをちょん、とつつく。

「・・あ・・。」

それだけで、体の反応はものすごい。
くそう、不意打ちは卑怯じゃない。
雫が「サキコ感度良すぎだよ。」ってくすくす笑ってる。
私は覚悟した。それと同時に、胸を高鳴らせている自分をたしかに認めざるを得ない。


幸せと恥ずかしさをいっぱいに感じながら、その日私は、もうこれ以上はイけないってくらい雫にいじめられた。
翌日、私の腰がまったく立たなくなるほどに、である。

人前では絶対に「良い後輩」としてふるまう雫の事も、二人きりになるとその本性を現す雫の事も私は大好きだ。
だからいじめられつつもやっぱり私は幸せ者なのでしょう。

戻る