コンビニの前で佐伯さんと



「あれ、委員長でねえか。」

その声を聞いたとき、智子は、ああ、やっぱりと嘆息した。
家を出る時から何やら嫌な予感はしていたのだ。
母親に切らした醤油を買いに行ってくれと頼まれて、このコンビニまで買いに来た。
自転車を漕いで10分かかるコンビニだなんてきっと都市圏では考えられないのかもしれないけれど、
信号機もろくに見当たらない、家と家の間が50メートルも離れているようなこの田舎町にとっては貴重な存在だ。
1年前にここが出来てから、母親は何かと買い物を智子にいいつけるようになった。
田舎町のコンビニエンスストアにふさわしく、野菜やら調味料も取り扱うスーパーのような店だし、
深夜の1時にはしまってしまうような店だけれど、父親も母親も便利だ便利だと満足そうである。
日が暮れると、コンビニは行き場を失った若者たちの格好のたまり場になるということは、きっと日本全国どこへ行ってもあまり変わらないのだろう。
智子が自転車を漕いでここに来た時にはすでに、入口の少し脇のところで、若い人間が幾人か座り込んでいるのが見えた。
いや、智子とて、まだ高校生なのだけれども。
もう秋も暮れである。9時にもなればあたりはとっぷりと闇に包まれ、ただでさえ人気の少ない田舎町は静寂で包まれる。
蛍光灯の光にこうこうと照らされた店内の逆光のおかげで若者たちの顔はよく見えなかったけれど、ともかく彼らの存在が智子を億劫にさせ、また怯えさせた。
智子はとにかく、彼らと目を合わせないようにさっと脇を通り抜けるとコンビニの扉を開く。
幸い、若者たちは話に夢中で、智子の存在に気づいてもいなかった。
愛想のないはげ頭の店長から醤油を受け取り、一仕事終えたかのような心持ちでコンビニを出た時のことだ。
少し、油断したのがいけなかった。
ふ、と円を描くように座り込んでいた若者たちに目をやった智子は、そのうちの一人の男の子と目が合ってしまった。

「あれ、委員長でねえか。」

もし、彼がうちのクラスの小島君でなかったら、きっと目があった事なんてなんとかごまかして、そっと家に帰ることだって出来たかもしれない。
あるいは。智子は思う。
あるいは小島君が、智子の学校で一番喧嘩が強くて喧嘩早くて、それでいて誰よりも教師に目をつけられていて、真っ金色の髪の毛をした男の子なんかじゃなかったら、
クラスメイトとしての挨拶をごく普通にかわせただろう。
しかし、教室ではろくに喋ったこともないのに、コンビニの前で会ったくらいならむこうも無視してくれればいいのに。
智子はそう思いながら、上ずった声で挨拶を返す。

「小島君。こんばんは。」
「おい、佐伯!委員長さ来てるぞ。」

小島君は、固まっていた4、5人のうちの一人に声をかける。

「委員長?ああ、黒部さん。」

顔をあげたのは、これも同じクラスの佐伯あかねさんだった。
佐伯さんは、小島君と同じくらい怖がられている。
実際殴られるとかお金をとられるとか、そういった恐怖より、彼女の存在が智子達一般生徒をおびえさせた。
どこか他人を威圧し、遠ざけ、畏怖させる。そうした特殊な空気を彼女は持っていた。
佐伯さんは綺麗だ。顎はほっそりと尖っていて、ちょっと鋭い眼もとは涼しげで、格好良い。
染髪禁止の学校で、明るめのオレンジ色の毛で堂々と通う彼女は、颯爽としてすら見えた。
あんな色に染めるには、まず間違いなくこの町の理容室じゃあ無理だろう。佐伯さんはどことなく、都会の匂いのする人だ。
そして、毎日おさげ頭で通う智子にとっては、どうしようもなく彼女が大人びて見えるのだった。

「三つ編みしとらんもん。分からんかった。」

佐伯さんは立ち上がって、そっと闇に溶け込んだ智子の真っ黒の髪の毛をすくいとる。
とても自然な動作だったし、とても佐伯さんらしい動きだった。
そう考えてから、智子は頬を紅潮させた。
教室の中で会話を交わす事はめったにない。まして、髪を触られるなどということは、今まで一度もなかった。
智子は目のやり場を失ってしまって、座り込んでいる数人にちらりと目をやる。
どの人も、智子や佐伯さんと、そうは変わらない年齢だろう。
彼らの足元には空き缶がいくつか転がっていた。確かめなくてもそれがアルコールである事は智子にはとっくに分かっていた。
なにせ、幾人か煙草を吸っている人間だっていたのだから。

「言いつける?」

アルコールの空き缶に目をやっていた智子の視界に、佐伯さんの顔がずいと滑り込んでくる。
端正で、ちょっと冷たくて、綺麗な顔だ。
智子は近寄る顔に頬をさらに赤くした。

「黒部さ委員長やもんなあ。言うよなあ。」

にやにやしながら小島君が言う。教室の中では強面に仏頂面ばかり浮かべているが、お酒が入っているせいか気分が高揚しているようだ。

「黒部さんも飲めば。そしたら、私ら共犯さね。」

佐伯さんはそう言って、左手に持っていたビールの缶を智子の目の前で持ち上げた。
佐伯さんが本気で言っているとは思えなかった。
智子は別にこのことを誰にも言いつけるつもりはなかったし、それは多分小島君も佐伯さんもわかっていただろう。
智子は絵に描いたような真面目な生徒だった。しかしそれは校則や規則や学業に従順というだけの意味合いであって、
自らの美学や正義感によるものでないことは智子自身が認めるところである。
それをつまらなく思う気持ちはないでもなかったが、16年間そうしていきてきて、とりあえず不自由はない。

でも、智子は思う。
目の前でビールをつきつける佐伯さんを見て思うのだ。
奔放に生きる彼女はとても格好良い、と。
智子は、教室でよく佐伯さんの事を見ていた。目が追ってしまうのを、止める事ができなかった。
だから今、彼女を目の前にして智子の心臓の鼓動はいよいよ早くなっていった。
佐伯さんはじっと智子の瞳を見つめる。こんなに長く目を合わせていたのは初めての事だ。

「委員長が飲むわけねえが。」

けらけらと小島君が笑ったのを契機に、智子はビール缶をぐっとつかみ取ると、
プルタブに口を押し付けて喉に流し込んだ。

ビール、というものを初めて飲む。智子の両親は酒が弱く、二人ともめったに飲まない。
酒のない家庭で育った真面目な智子は、アルコール自体、ほとんど初めての経験だった。

一口目で、苦みが口一杯に広がった。思わずむせそうになったけれど、なんとかこらえてそのまま飲み続けた。

脇で小島君が「良い飲みっぷりしとるやん。」と笑うのが聞こえた。
一缶飲みほして、智子は口元をぬぐう。
佐伯さんを見ると、彼女は笑っていた。彼女の笑顔は、とても珍しい。

「ビールおいしいが?」

智子は、「ん。」と喉を鳴らして、「苦い。」と一言だけ呟いた。
それから、くらりと目が回って倒れこもうとする。
珍しくあわてた佐伯さんが、智子の肩を支えた。

「うええ、苦いが、ビール!こんな苦い飲み物やと思わんかった。」
「ビールやもん。そら苦いよ。」

それから、うええ、うええ、と言い続ける智子に、佐伯さんはけらけらと無邪気な笑い声を立てる。
こんな風に佐伯さんが笑う所を智子は初めて見た。
もしかしたら智子だけではないのかもしれない。脇のほうで見ていた男達も、それから小島君も、
そんな佐伯さんを物珍しそうに見ていたのだから。

「やっぱ佐伯さんは大人やねえ。」

いきなりアルコールを摂取したせいだろうか。最初佐伯さんを目の前に固まっていた智子の舌もほんの少し回り始める。
今度は智子が佐伯さんの目を覗き込む番だった。

「私もビールが美味しいなんて思えるようになるんかな。」

急に変わった智子の態度に、ほんの少しの動揺を見せた佐伯さんは、あっという間に笑顔をひっこめて「知らんよ、そんな事。」
とつぶやいた。

そうかあ。
智子は、口一杯に広がって消える気配を見せない苦みにうんざりしながら、思う。

もし、私がこの苦みの美味しさを分かるようになれば、少しは佐伯さんに近づけるんかな。

ビールの味は、どこか佐伯さんを見る時に感じる気持ちに似ている。
きっと届かない、自分には理解できない、彼女は自分を見てくれない。
そんな、淡くて、苦くて、羨ましい。そういう気持ち。

智子は初めて、まだまだちっぽけで幼い自分を悔しいと思った。早く大人になりたいと思った。
智子は、ビールを美味しく思える事も、佐伯さんに近づけることも、それがすなわち大人になる事なのだ、と漠然と思った。

「あんた、いい加減自分で立ちよ。」

ちょっとあきれたように佐伯さんが言う。智子ははっとした。ふわふわした脳みそが一瞬にして覚醒した。
ずっと、佐伯さんの肩を借りていたせいで、二人の身体は密着していた。

あわてて身体を離すさいに、佐伯さんが智子の耳元でそっとささやく。

「黒部さん、いっつも私の事見とるでしょ。」

はっとして、佐伯さんの顔をもう一度見ようとしたけど、佐伯さんはもう他の仲間の方に顔を向けてしまっていた。

「気をつけて帰りなよ。一応チャリには乗らんほうがええ。」

ひらり、と佐伯さんが手を振る。佐伯さんは、いつだってひらひらしている。
そして智子の口の中は、今もビールの苦みでいっぱいだ。

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