夏が来ると思い出す。
焼け焦げたアスファルトの坂道。
背中にはりついたTシャツの感覚。
つんざくように鳴いていたのにふと黙り込む蝉の声。
夜になると立ちのぼる土のにおい。
古い民家からかすかに香る蚊取り線香。
そんな故郷の情景や匂いや、知覚できる一切のものと一緒に、
思い出すものがある。
先輩のことだ。でも、顔はもう忘れてしまった。
思い出せるのは、彼女の腕の体温だけ。






夏が嫌いだ。別にこれといって理由もないけれど、とにかく好きじゃない。

高校二年生の夏休み。
美術部に所属していた私は、毎日のように学校に通っていた。
日差しは日に日に厳しさを増してきていて、私は心底うんざりしていた。
それでも真面目に学校に通い、絵を描き続けたのは、夏休み明けにすぐ開催される文化祭の展示のためだった。

それだけだ、といいたいところだけれど、10代の子が何かに取り組む時、
少しくらいは不純な動機が混じっていたりするもんだ、と私は信じている。
例外にもれず私にも不純な動機があった。

受験勉強の息抜きだとか言って、たまに顔を出す先輩。
私は先輩の顔がちょっとでも見たくて、毎日学校に通っていた。
今思えばなんと健気なことだろう!
馬鹿みたいに毎日期待に胸ふくらまして学校へ行く。
チラチラとドアの方に目をやりながら、書きかけのキャンバスにガッシガッシと油絵を塗りつける。
今日先輩は来るのだろうか、来ないのだろうか。
高校二年生の夏に考えていたことなんて、それだけのような気がする。
来ない日は友人に心配されるくらい気落ちするくせに、先輩がきたらきたで、私は素直に甘える事も出来ないのだった。
先輩がやってきて、部員のみんなが喜ぶ。先輩は部長で、みんなにすごく慕われてたから。
みんながぐるっと先輩を取り囲む。
夏の紫外線とは無縁そうな真っ白な肌をして、他のどの部員よりもちっちゃな先輩は、いつもニコニコと楽しそうに喋るのだった。
そんな輪に外れて、私はなんにも気付いてないってふりして、油絵をガッシガッシと描き続けた。
先輩はそんな私にちゃんと気づいてくれている。
取り囲む皆に一通り挨拶をして、持ってきたアイス・キャンディーを配ってから、そっと私に話しかけてくれる。

「島内は毎日一生懸命絵を描いていて偉いね。」
「はい。」
「絵を描くのは楽しい?」
「はい。」

私は首筋にかいた汗がやたらと気になった。
気の利いた返事の出来ない自分にいらだって、制服のシャツの肩口で汗を拭う。
手は油絵の具で汚れているから使えないのだ。
私はいつだって先輩とうまくしゃべることができなかったけれど、いつだって先輩は私に何かしら声をかけてくれる。
一通り喋ると、満足したかのように私の隣でじっと私の描く絵を見つめている。
自意識過剰だと笑ってくれてもかまわないのだけれど、他の子よりもちょっぴり長く私の傍にいてくれている気がした。
私は先輩に見られている間、天にも昇る気持ちで描き続けた。 作品を描くことより、いかに作品に熱中している自分を先輩に見せるかということに、始終苦心していた。


そんな風にして、高校二年生の夏はすぎていった。
もう二度と取り戻せない夏、だとか、一生に一度しか味わえない思い出、だとか感傷に浸るつもりは毛頭ない。
それでも今思えば、総じて幸福だったといえる。
しかし、もし今あの夏にタイムスリップして、自転車をぎっこぎっこと漕いで下校する私の汗ばんだ肩をちょいとつついてやってから、
「お前は今幸せなんだ。」と教えてやったとしたら、まず間違いなく「まさか!」と笑うはずだ。
高校二年生の私はきっととても些細なことにつまずいたり悩んだりしてる。
先輩に会えないさみしさを感じていたり、終わらない課題にうんざりしたり、
そう、きっと目の前の坂を自転車を漕いで登らなきゃいけないってことにいらついたりしてるはずだ。
それでも幸福だった。きっと青春なんてそんなものなのだろう。

文化祭の展示はとても満足な出来だった。
私の作品も、見にきた先生やOBOGにほめてもらえた。
私の描いた絵は風景画だったけれども、その絵のそこかしこに先輩への思いが見え隠れしているような気がした。
始終、先輩のことばかり気にして描いていた絵だから当然といえば当然かもしれない。
ろくに一つの事柄をやりとおしたことのなかった当時の私は、完成した絵にすっかり満足して、誇らしげに胸をそらしたりなんかしていた。
先輩も「綺麗な絵」とほめてくれる。それが嬉しくて嬉しくて、私はとても上機嫌だった。

しかし、私の喜びはそのあとすぐに、しかも唐突に打ち砕かれるのだった。
たぶん、お昼ごろの出来事だったように記憶している。
展示の受付の係をしていた私は、交代時間だと言うので、友人と他の展示やら劇やらを見て回ることになった。
祭りの独特の高揚感は、少なからず私の心を躍らせていた。
三階の美術室から、一階の昇降口まで降りたところで、私は財布を忘れた事に気がついた。
私は友人を昇降口で待たせて、財布を取りに階段を駆け上った。
軽い足取りで二階まで上がった時、ふと人影に気づいた。
私の昇っていた階段は廊下の端にあってあまり使われない階段だったが、階段の影になっているところで男女が抱き合っていたのである。
別段私が気にすることでもないはずだ。祭りの間こういうカップルを目にするのは珍しいことじゃない。
ただ、女の方の、涼しげな夏スカートから延びた、ほっそりとした真白な足に私の眼は吸い寄せられた。
あんなにほそっこい足をしているのは、先輩しかいない。
先輩は―もしかしたら先輩と抱き合っていたからそう見えただけかもしれないけれど―とてもとても大きな男の人と抱き合っていた。
顔はよく、見えなかった。私がどのくらい彼女たちに釘付けになっていたかは判然としないが、
とにかくそれが二人の完全なる合意によってなされた抱擁であった事はまず間違いなさそうだった。
それからどうやって財布をとりに戻り、友達と合流したのか、そしてその後何を見て回ったのか記憶にない。
びっくりするくらいすっぽりと記憶が抜け落ちている。


次に私が思い出せる記憶というと、日が沈んだ頃に行われる後夜祭の記憶。
夏ももう終わろうというのに、夜気はむっと蒸し暑く、ちょっと息苦しい。
夏の夜が運んできた土のにおいと、肌にまとわりつく生ぬるい空気を、今でも鮮明に思い出せる。
私の学校では後夜祭は運動場に特設ステージが設営され、そこでちょっとした見せものやバンド演奏なんかが催される。
生徒たちはこぞってステージに押し寄せ、ステージ周りはすし詰め状態になる。
一部の冷めた生徒は人混みから抜け出て人の塊の外からステージを眺めたりするのだけれど、あの人ゴミの中の暑苦しさが「まつり」って感じでちょっと楽しかったりもする。
私も大半の生徒と同じようにぎゅうぎゅうづめの人波に好んでのまれた。前の方がずっと盛り上がるから、みんな前の方を陣取ろうと必死である。
特に私の友人は、こういうことにかけては人一倍の意欲を発するタイプだから、どんどんと人をかきわけて前に行ってしまって、気づいたら私たちははぐれていた。
どちらにしろ、こんな状態では会話は望めそうもないし、と私は友人を探すのを諦めて、ぼーっと今まさに祭りをしめくくらんとするステージの方を見やっていた。

「島内。」

声をかけられた。夏休み中、息を潜めて焦がれ続けた、耳に心地いいソプラノ。 視線をちょっぴり下げると、ちっちゃなちっちゃな先輩が人ゴミにもみくちゃにされていた。
「こんなところにいてもどうせ見えないから、遠くで見るつもりがいつの間にか人にのまれちゃった。」
先輩は恥ずかしそうに笑った。先輩も友人とはぐれた様子だった。もしかしたら友人でなく、先ほど抱き合っていた男性かもしれないけれど。
私たちの前に立っていた男が背の高い人だったので、私は先輩の腕を引いて、比較的見やすそうな場所を探した。
どちらにしろ先輩はよく見えなかったに違いないが、それでも「ありがとう。」と笑ってくれた。
日は完全に沈み、昼とは別の、夜の熱気が辺りにたちこめている。
私は胸がしくしくと痛むのを、ただ感じていた。
ステージが始まった。何組かのバンドが、吹き出る汗を輝かせながら、演奏に熱中している。
さらにステージがもりあがってくると、観衆はいよいよ熱気に包まれて、もっとぎゅうぎゅうに押し込められるのだった。
人の熱気で体温はますます上昇し、私は何度も額の汗をぬぐっていた。
もう、夏も終わりだというのに、この暑さと来たら。
それでもその時の燃えたぎるような暑さが、私にはうれしくて、切なくて、いとおしかった。
私の腕と、先輩の肩が触れ合っていた。いや、触れ合うというよりもあまりの窮屈さに押しつけられていたという方が正しいかもしれない。
とにかく、私は演奏なんかまるで聞いてなくて、先輩の肩から伝わる彼女の体温だけを感じていた。
ほそっこい先輩は確かな熱を持って、そこに存在していた。
私の意識は、先輩の右肩に触れた左腕に、すべてが集中していた。 私は泣きそうだった。先輩の顔を見ることは全くできなかった。
バンドの演奏に聞き入っているふりをきめこんで、ああ、胸が痛いなあ、とひたすら心の中でつぶやいていた。

あっつくて、あっつくて、胸の痛い夏の終わりに、私は同性の先輩に失恋した。
もし私が男だったら、振られる覚悟で思いを告げたかもしれないが、そうすることもなかった。
告げるつもりもなかった思いだし、もしかしたら私は彼女にあこがれていただけかもしれない。
それでも、私が「はい。」ばっかりしか言えないような後輩じゃなかったら。
もっと違う未来があったかもしれないとも、最近よく思う。
あの時の胸の痛みほど、甘くて、ちょっと苦い痛みを、私はまだ経験してはいない。






私は地下鉄のホームにならぶ。いつもよりも少し早く家を出たおかげか、こころもちすいているような気がする。
どちらにしろ、電車に乗ってしまえばぎゅうぎゅうづめにされてしまうのだけれど。
季節は6月の初め。私は社会人として初めての5月病をなんとか克服したところだ。
もうすぐ、夏が始まろうとしている。たまらなく暑くて、少し胸の痛い、夏がやってくる。

「島内?」

突然声をかけられて私はびくり、とする。私が自分の家の最寄り駅で知り合いに声をかけられるのなんて、初めてのことだから。それも、出勤前の朝の事である。

「・・・。先輩。」

先輩だった。ぼんやりとおぼろげだった私の記憶の中の先輩の顔が、目の前にいる大分大人になった先輩と重なりあって、像を結ぶ。
私たちは故郷からだいぶ離れたこの地で再び出会った。このような偶然もあるものか、と二人で笑い、驚き合う。
先輩はあんまり変わってない。相変わらず真っ白で、ほそっこくて、ちっちゃかった。
私たちは驚きもほどほどに、二人並んで電車を待つことにする。

「満員電車、いやになっちゃうよね。」
「夏が来ますしねえ。あついです。」
「そうねえ、もうすぐ夏だね。島内は、夏はすき?」
「・・・。はい、好きです。先輩は。」
「えー。大好き。」

素敵な笑顔だ。と思う。あの時から何も変わっていない。
大好き、と先輩がにっこりしたあとすぐに電車がホームにすべりこんでくる。
私たちはもみくちゃにされに、満員電車に乗り込むのだった。

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