図書室にてスタンドバイミー



教室の中心で大きな笑い声があがったので、私はすっかり夢中になっていた植物図鑑から顔をあげた。
そちらに目をやれば女の子たちが何人か腹を抱えて笑っている。皆を笑わせているのはその中心にいる、矢幡さんだろう。
私はほう、と息を一つ吐き出してから眼鏡をくいと持ち上げ、また静かに植物図鑑に目を落とした。
休み時間の教室がにぎやかしいのは、自然のことと思う。だから私が彼女たちに文句を言う権利なんかないのだ。
それでも、騒々しい彼女たちを見ているとほんの少しイライラしてしまう。
イライラするのは読書の邪魔をされるからだろうか、それとも疎外感を感じてしまうからだろうか。
いや、きっと私は寂しいのだろう。声をあげて誰かと笑いあう事が出来ない自分が歯がゆくて寂しい。
たぶん私と彼女たちの間にはサランラップみたいな透明の膜が張られていて、すごく近くにいても、決定的に何かが違っていて決して歩み寄る事はできないのだ。
だから私は、本を読むのだ。



そっと木製の扉を開けると誰もいなかった。司書の先生もいない。
誰もいない図書室は久しぶりで私は興奮した。そんなことはめったにないことなのだ。
私はカウンターに入ると、早速図書カードの整理を始めた。
この図書館はとても古くて、木棚が立ち並ぶ様子はとても趣がある。古いのは造りだけじゃない。
バーコード制が普及した今も、図書カード制度を続けているのだ。
私はそれをとても気に入っている。本の裏表紙のカードを見たら誰が借りたか分かるところはロマンチックだと思うし、自分の図書カードに借りた本の題名が並んで行く様はとても気持ちいい。
だからこの図書室は私の大好きな場所だった。
鼻歌を歌いながら図書カードをクラスごとに分けていく。昨今本を借りて行く人は少ないからすぐに終わってしまう。
すると、急に図書室の扉が開いた。鼻歌を聞かれたかもしれないと思って、少し頬が紅潮するのが自分で分かった。
手持無沙汰の私は机上を整理するフリをしながら、やってきた利用者の方に目をやる。うちのクラスの矢幡さんだった。

「あれ、橘さんじゃん。ああ、そういえば図書委員だったよね。」

彼女はとても明るい声を出して声をかけてくる。彼女の声はいつでも明るい。

「うん。」

私は小さく頷く。私はどうにも、矢幡さんが苦手なのだ。嫌いなわけじゃないけれど。
矢幡さんはクラスの皆を引っ張るような活発な人で、いつもヒマワリみたいに笑う。
だから日がな日陰で本を読んでばかりいるような私はどうにも萎縮してしまう。
カウンターで備品をいじくりまわしている私を見て、忙しいと思ったのだろうか、それともつれないヤツだと思ったのだろうか。
「がんばって。」と短く言うと矢幡さんは本棚の方に行ってしまった。
私はそんな後ろ姿をじっと見た。そういえば矢幡さんが一人でいるところ、初めて見るかもしれない。
矢幡さんみたいな人も図書室に来るのか。私は静かにそう思った。


本と図書室が大好きな私は暇さえあれば図書室に行く。当番じゃない時もいるものだから、結局毎日のように私が当番をやる事になっていたりもする。
でも全く苦なんかじゃない。むしろ私が代わりに当番をしている間、他の委員の子が別の用事を済ますことができるのなら、とても有意義で良いことなんじゃないかと思う。
図書室は意外ににぎわっている。勉強をしている子もいるし、授業で必要な資料を読んでいる子もいる。決して多くはないが本を借りていく子もいる。
だから私は、図書室にどんな子が来ているかなんて全く覚えていないし気にしたこともない。
だけれども、あの日から私の目に矢幡さんの姿がよく止まるようになった。なぜかは分からなかった。
一人でいる矢幡さんが物珍しかったのだろうか。それとも彼女の差し出す図書カードが一風変わっているからだろうか。

「やっ、橘ちゃん。おねがいしまっす。」

いつの間にか呼び方が橘ちゃんになっている。私は照れ隠しに眼鏡を少し持ち上げた。それから彼女の差し出してきた本と図書カードに目を落として、やっぱり変わってるな、と思って首をかしげた。
矢幡さんが差し出してきた本は森鴎外の『高瀬船』だ。それは良い。
私は図書カードをじっと見やった。利用者は自分の図書カードに借りる本の題名と著者名、それから貸出日と返却日を記入することになっている。

タカセブネ/モリオウガイ

別に不備はないから貸出しの判を押す。確かに不備はない、が、なんでカタカナ?
その前の本は、ナツノニワ/ユモトカズミ。その前はアンヤコウロ/シガナオヤ。
彼女は毎回カタカナで図書カードを書いているのだ。不思議に思いながら判を押し終え、本を渡す。

「ありがと。」

私の疑問に気づいていないらしい彼女はにっこり笑ってから、ひらりと手を振って行ってしまった。その所作はちょっとかっこいいな。ぼんやりそう思った。




私の、いや私たちの状況が一変したのはある平和な朝のことだった。
起きたてほやほやの朝の図書室はひっそりとしている。それが心地よかったから、早起きして図書室でゆっくりするのがここのところもっぱらの楽しみとなっていた。
私が本棚を間をうろうろしていると誰かにぶつかった。まさかこんなに朝早くに誰かがいるとは思わずに、背表紙に夢中になりながら歩いていたのがいけなかった。
びっくりしたせいでつまずいて尻持ちついてしまう。なんとも恥ずかしい。

「ごめんなさい。」

私はとっさに謝って、相手が取り落とした本を拾い上げた。シイナマコトのガクモノガタリ。矢幡さんにつられてついカタカナでその題名を読み上げる。
私は本の埃を払って相手の顔を見ると、相手はなんと当の矢幡さんだった。

「こっちこそごめん、ぼーっとしてたから。橘ちゃん大丈夫?」

矢幡さんは私が立ち上がるのに手を貸してくれる。立ち上がった私の頭をぽんぽん叩く。どうやら髪についた埃を払ってくれたらしい。
矢幡さんは背が高いので、それをするのはたやすいのだろう。

「ごめんね、ほら、私でかいから、突き飛ばしちゃった。」

矢幡さんが申し訳なさそうな顔をする。大きいとろくなことない、なんてつぶやいている。

「ううん、背が高いの、カッコイイと思うよ。」

私は純粋にそう思ったのでそう告げると、彼女はその顔に嬉しさを隠そうとはしなかった。
その素直な性格が、多分皆に好かれているのだと思う。

「ありがと。橘ちゃんはやっぱイイヤツだね。バレーでしか役に立たないってよくからかわれるんだけど。」
「バレー?」
「私、バレー部。」
「そうなんだ。」

私がそう言えば、あっと言う間に拗ねた顔をする。「一応エースなんだけどなあ。」と悔しそうにつぶやいた。本当に素直な子だ。
それをきっかけに少しだけ話をした。図書室だから、とっても小さな声で。棚と棚の間だからそんなにうるさくはないはずだ。

好きな本の話をした。多分彼女の持つ話題はとても豊富だと思うけど、私は本の話しかできないから。だから本の話をした。

それから私と矢幡さんは、図書室で会うたびに話をするようになった。
矢幡さんは、よく私に本の話をさせたがった。私が面白かったという本の内容を私の口から聞くのだ。

「私に内容を聞くよりも、自分で読んだ方がいいと思うよ。」
「いいの、私は橘ちゃんが面白かった本を、橘ちゃんの口から語ってもらいたいわけ。」
「でも、せっかくの素敵な本を私が語ってしまったら、あなたが読むときつまらなくない?本は読むものだし。」
「ちゃんと読むべき本は、きっと違う出会い方をしてるから大丈夫。橘ちゃんが語る本は、橘ちゃんが語る本として私と出会う事を望んでいるんだよ。」
「意味わからないけど。」
「いいのいいの。私は橘ちゃんが語るのを聞きたいんだい。」

いつの間にか私たちはすっかり図書室で話し込んでしまうことが多くなっていった。
私は図書室が、もっと好きになっていった。
橘ちゃんは教室でいつも本を読んでいるね、ある日彼女がそう言うので、私は矢幡さんにサランラップの話をした。

「私、なんか皆との間にサランラップみたいなものがあるように感じる時があるんだ。」
「サランラップ?」

矢幡さんは、目の前の本棚から抜き取ったサルトルをぱらぱらめくりながらきょとん、とした。
私たちは哲学のコーナーの前で話すことが多くなった。その辺りは人があまり来ないからだ。

「なんか、サランラップみたいな薄い膜。すごく近いんだけど、やっぱりあっち側とこっち側は隔てられていて、あっち側にはいけない、みたいな。」

彼女は考え込むように眉をしかめた。

「私はあっち側?」
「うん、あっち側。」

それを聞いて、矢幡さんはにいっと笑った。満面の笑みだった。

「じゃあ大丈夫だよ。だって、私橘ちゃんとの間にサランラップなんか感じないし。」

彼女はさらに付け足す。あっけらかんとした口調だった。

「それにサランラップってすぐ破けるじゃん。そんな膜、自分がいらないと思ったらすぐに破けるよ。」

うん、と私は頷いた。彼女の軽い口調が、私の心も軽くするような気がした。
彼女は笑いながら文芸書コーナーに歩いていき阿部公房の『砂の女』を手に取った。
これ借りてくー、と私に手招きをする。私は急いで彼女のそばに駆け寄った。

矢幡さんとの図書室での会話が始まり、私の毎日は総じて幸福になった。
ある日の放課後、私がカウンターのそばの窓からぼんやりグラウンドを眺めていたら、女子バレー部がランニングをしていた。
私はほとんど無意識に矢幡さんの姿を探した。それはむしろ当然なことだろうと思う。
矢幡さんはすぐに見つかり、私はずっと彼女を見ていた。
やがて視界から矢幡さんも女子バレー部員もみんな消えてしまって、私はため息をついて読んでいた本に目を落とした。
なんとなく矢幡さんが視界から消えてしまったことが、悲しかった。

「橘ちゃん。」
「や、矢幡さん?」

唐突に窓の外から声をかけられ驚きながら窓に駆け寄る。
外にはジャージ姿の矢幡さんが立っていた。今さっきまで、ランニングしていたのに、汗一つかいていない。

「矢幡さん、部活は?」
「走ってたらさー、橘ちゃんが見えたからこっそり抜けてきた。」
「だめじゃん。」
「ねえねえ、橘ちゃんもあたしの事見てたでしょ。」
「…み、みてないよ。」

私はかろうじて嘘をついた。照れ隠しにそっぽをむいて眼鏡をもちあげる。

「すねないでよー。」

矢幡さんは悲しそうな顔をした。矢幡さんは素直である。

「ねえねえ、橘ちゃん。私今日図書室いけないから代わりに借りといてくんない。」
「いいよ、何?」
「遠藤周作の『深い河』を。」
「わかった。」

あした渡すね、そう約束したら矢幡さんは元気に体育館の方に走って行った。
私は本棚から注文された本を持ってきて、矢幡さんの図書カードを取り出す。
キンカクジ/ミシマユキオと書かれた下に、彼女に合わせてカタカナで題名を書く。
ディープリバー/エンドウシュウサク。私は丁寧に丁寧にその文字を書いた。




翌日私は彼女に渡す本を手に廊下を歩いていた。
トイレの前を通りがかった時、私は思わず足をとめた。

「イツキってさー。」という、うちのクラスの女の子の声が聞こえてきたからだ。
そしてイツキというのは矢幡さんの名前だったからである。
案の定次に聞こえてきたのは矢幡さんの声だった。

「イツキってさー、最近よくいなくなるよね。」
「そう?」
「うん、どこ行ってるのー?」
「うーん。図書館とか。」

きゃはは、と矢幡さんの友達は高い笑い声をあげた。

「何それ。あんた本読むのとかむかしから嫌いじゃん。好きになったの?」
「いや、本はまだちょっと苦手なんだけどさー。」

ここで、ショックで本を取り落とした。

「じゃあなんで図書室なんて行ってるわけー?暇つぶし?」

矢幡さんの友達がこう聞いたあたりで耐えられなくなって私は急いで本を拾うとそっとその場を後にした。
本は彼女の机の上に、そっと置いておいた。直接渡すことはできない。今までどんな顔で彼女と話していたか忘れてしまったからだ。
私は本が大好きで、矢幡さんとの会話を楽しみに図書室に行っていた。私は矢幡さんとの会話が楽しくて毎日胸を高鳴らせていた。
矢幡さんは本が嫌いで、暇だから図書室に行っていたのだろうか。
別に暇だから図書室に行く、そんな事はおかしくもなんともない。でも、私はどうしようもなくその事実がショックだったのだ。

私はそれから矢幡さんをさけるようになった。矢幡さんを嫌いになったわけじゃない。
顔を合わせたら理不尽な理由で彼女を責めてしまいそうで怖かった。私に近づかないでほしかった。

矢幡さんは最初何度も私に声をかけようとした。私はそれがつらくて、矢幡さんの傍には決して近づかないように細心の注意を払った。
もともと教室ではあまり話をしないのに、矢幡さんが教室でも私に声をかけようとする。でも、私は彼女と話す気はなかった。
やがて、終業式が近づいてきた。来年私たちが同じクラスになるとは限らない。授業中そっと矢幡さんの背中を見ることもかなわなくなるのだ。

終業式の一週間前、矢幡さんは私が代理で借りた『深い河』を返して別の本を借りて行った。
スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』だった。
もう私の拒絶を十分に理解していたのであろう彼女は、私に話しかけることはしなかった。
しかし私が彼女に判を押し終えた図書カードと本を渡す時、じっと私の顔を見つめた。今にも泣き出しそうな顔だった。
矢幡さんの顔はいつだって彼女の心臓と直結しているみたいに素直なので、私も悲しくて仕方がなかった。
彼女は黙って図書室を後にした。



これで私と矢幡さんの交流は終わってしまった。私は一人でそう思って、その夜悲しくて悲しくて泣き明かした。
しかし翌日学校に行くと、自分の机の引き出しの中に思いがけないものを発見した。
スタンド・バイ・ミーだ。彼女が昨日借りて行ったばかりの本。
不思議に思ってパラパラとめくると、一枚の厚紙が滑り落ちた。どうやら本に挟んであったらしい。
それは矢幡さんの図書カードだった。それはまだ使いかけで、十分にまだ使えるカードだった。
何気なく裏を見ると、縦に矢幡さんの字が並んでいた。
「終業式の後で」
丁寧な字でそう書かれていた。
私は思わず矢幡さんを探した。矢幡さんはいつもとかわらず、夢中でクラスの皆を笑わせているように見えた。


その夜私はベッドに寝転がって図書カードを眺めた。
突然私の引き出しに本と図書カードを入れた矢幡さんの真意が分からなかったからだ。
もしかして図書委員の私に返しておけという意味だろうか。
しかし、彼女はそんな性格じゃない。それだけは、短い間だったけど彼女と話した私は自信を持って言える。
本の題名の羅列を見たら、ある事に気がついた。
カタカナで書かれた本の題名。その一文字目と二文字目がほんの少しだけ離れている。私が書いたディープリバー以外はすべて。
それでいて、頭の文字はぴっちりと揃って丁寧に書かれている。
そこで初めて私は彼女の意図に気がついた。偶然なはずはなかった。





アンヤコウロ/シガナオヤ
ナツノニワ/ユモトカズミ
タカセブネ/モリオウガイ
ガクモノガタリ/シイナマコト
スナノオンナ/アベコウボウ
キンカクジ/ミシマユキオ
ディープリバー/エンドウシュウサク
スタンド・バイ・ミー/スティーブン・キング





「なにそれ…。」

私は頬が熱くなるのを感じながら銀縁の眼鏡を、ぐいと持ち上げた。




終業式の後は、すぐに全員下校しなければならない。
だから図書室も開いていないかと思ったが、幸いにも鍵はかかっていなかった。
私が図書室に入るとすでに彼女はそこにいて、じっと窓際で外を眺めていた。
私は静かに近づいて行って、手近な机にスタンド・バイ・ミーを置いた。
沈黙が続いたので、手持無沙汰はな私は机を指先で撫でる。古びた机は、歴代の生徒の持つ本でよく磨かれたのかつるりとしていた。
風が吹いて、窓にかけられたクリーム色のカーテンがふわふわ揺れている。

何がきっかけになったのか分からない。
矢幡さんは突然にがばりと振り返った。いつも正直な気持ちがだだ漏れな矢幡さんの顔は真っ赤だった。
彼女が緊張と混乱をしているのは明らかだった。
彼女の顔を見ていたら私は可笑しくてたまらなくなってしまって、くすくすと声をたてて笑う。
いつまでも笑っている私を見て、矢幡さんは困ったように眉毛をハの字にした。

「ごめん、ごめん。」

私はようやく笑いを止めると、彼女に近寄っていって図書カードを渡した。

「…意味、わかった?」

背の高い彼女は、頭一個分背の低い私を覗き込むように言う。不安げな顔をしている。

「うん。わかったよ。」

ちょっと強めの風ふいたせいで、カーテンがふわっと高く持ち上がる。
風が私たちの頬を撫でる。

「ごめん、ずっと、橘ちゃんに近づきたかったの。でも私馬鹿だし、どうしたらいいかわからなくて。」

私は黙っていた。

「アナタガ、スキデス。」

矢幡さんは図書カードを縦に読み上げた。顔は限界まで赤かった。
私は黙っていた。多分私が言葉を発せば彼女はほっとするだろう。でもしてやらない。
いかにも本好きな振りをしていた彼女にほんの少しイジワルをしたって、許されるはずだ。

実のところ私はもう、緊張で頭が混乱しているであろう彼女が愛しくて愛しくてたまらなかった。
何も言わない私に矢幡さんは言葉を重ねる。

「つまり、スタンドバイミー。」

私は嬉しくて、彼女ににっこり笑いかけた。彼女に笑いかけるのはひどく久しぶりだ。

「私も矢幡さんの事好き。」

私は思い切って矢幡さんに抱きついた。普段なら絶対にしない。つまり、私もちょっと頭が混乱していた。
しかしこういう事は勢いが大事なのだ。私の数倍彼女は混乱している。
距離がゼロなら、私たちの間にサランラップは存在しないなと、彼女の暖かさを感じながらそんな事をぼんやり考えた。



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