1000日の夜



「ねえ、見て見て。」

私の芸術的な装飾でふさふさのイケメンになった森鴎外を見せつけて、私はニヤリとわらって見せた。
しかし彼女は、私よりもだいぶ不敵で自慢げな笑みをこぼす。

「ふ、まだまだ甘いな。」

彼女の夏目漱石は、原型をとどめていなかった。

「はい、そこの二人ー。」

やべ、と教科書のページを戻そうとしたが、もうおそかったみたい。
黒板の方からつかつかと近寄ってきた先生に、私たちは自分たちの教科書をまっさらに綺麗にするよう命じられた。


私たちは悪友だ。授業をサボるとき、先生にちょっかいをかけに行くとき、皆に新ギャグを披露するとき、いつだって一緒だった。
こんなに気の合うヤツはなかなかいない。
そう、なかなか見つからない。だから彼女を失ったら、わたしは一体どうなっちゃうんだ。
私は彼女の隣で思いっきりバカをやって、思いっきり笑って、そして泣きたいぐらいの恐怖を味わってる。
いっそこんなに大事じゃなかったら、こんなにいいヤツじゃなかったら、こんなにツラくはなかったのかな。

「あ、髪に糸くずついてる。」

私は彼女の髪に手をやる。糸くずをとった拍子に、彼女の肩まで伸びたサラリとした髪に指先が触れた。
それだけの事なのに、少しだけ胸が跳ね上がる。
彼女は「ありがと。」と言いながら、弁当箱のプチトマトをひょいと私の弁当箱に放り込んだ。

「褒美にこれを進ぜよう。」
「いらないよ。トマトそんなに好きじゃないの知ってるでしょ。」
「私もいらないよ。トマト嫌いなの知ってるでしょ。」

プチトマトは私たち弁当の間を二往復ほどした。
「仕方ないなあ。」と彼女はため息をつくと、プチトマトをつまみあげた。

「あーん。」
「・・・・あーん。」
「ふふふ。あーんってされるとつい食べちゃう。人間の悲しい性だよね。」

彼女は勝ち誇った笑みを浮かべる。トマトは甘くて、甘くて、ちょっぴり酸っぱかった。
私はトマトの果汁に咽たふりをして何も言わないでおく。なんて卑怯なやつ!卑怯なやつだ!






きっと大丈夫だよ。だって、中学校三年の初めに出会ってから、高校二年生の二学期の今まで、私たちはずっと隣にいたじゃない。
きっと大丈夫。一目ぼれしたあの日から私は彼女に思いを知られることもなく、彼女の一番近くにいられたじゃない。






今日は彼女の部活はなかったから一緒に下校できた。
彼女のぐずぐずのスニーカーを見つめて「さっさと履き替えればいいのに。」なんて思いながらも、私は上機嫌だ。
それでも、というか、だからこそ、乗り換えの駅で別々になってからの寂しさったら尋常なもんじゃない。
ああ、明日早く学校に行きたい、と思っている割と珍しい女子高生なんじゃないかな、私って。

家に帰ると母親はいなかった。買い物にでも出かけているのかもしれない。
リビングの床にほっぽりだしてあったタオルのその形がどう見てもうんこだったので、私は思わず噴き出して、
しめたとばかりに携帯を取り出した。写真におさめて、彼女にメールをうつ。
彼女にメールをうつためのネタを始終探す癖がついたのはいつからだったかな。もう一種の習慣化している。
ネタは、下らなければ下らないほどいい。その奥にある苦くて甘い感情を隠すのにとっても好都合。
その下らないメールをきっかけに、彼女とのやっぱりなんてことのないメールが始まる。
今更長文のメールを送り合うような間柄でもない。

「つまらん。お前の話はつまらん!おかげで私のうんこフォルダはもう一杯。あ、そいえば宿題やった?」

とかそんな感じの、それこそ15秒もあればうてちゃう文面。
それでも、私には十分すぎるくらい。
私のために彼女が使ってくれる15秒間の存在が、私をとても満足させる。
彼女とのメールが始まると、返信が待ち遠しくてたまらない私は、大抵その夜携帯電話を握りしめて寝ることになる。






このままでいられるわけはないって事は、十分にわかっていたわけで、つまり覚悟は出来ているはずだった。
むしろ3年間、こういう事態が起こらなかったことが奇跡だ。惚れた弱みってやつとか、親友のひいき目ってやつとか、
そういったのを差し引いても彼女は結構かわいいと思う。

その日彼女と一緒に帰る約束をしていた私は、担任の教師に職員室によびだされた。
クラスの中で私だけが進路調査のプリントをだしていなかったのだ。ついでに、日頃の態度についてたっぷりお説教をくらってしまう。

思っていたよりも遅くなったかな。彼女は先に帰ってしまっただろうか。
ちょっと焦りながら教室を覗き込むと、人影があった。なにやら男の声が聞こえる。

「オレと、付き合ってほしいんだ。」

なんて甘酸っぱい青春のひとコマなんでしょう。多分次の言葉を聞いていなかったら、私はとってもあったかい気持ちで家路につけたはずだった。

「え、でも、そんな突然だし。」

その声は、私の大好きな彼女の声で。私は、一瞬のうちに固まってしまう。
私と彼女の切なくて幸福な日々が崩れさるのは、とても唐突だった。つまり、その、あんまりにも唐突だよ、これは。

「返事、待ってるからな。」

男のほう、声からするとたぶん井上クンかな、井上クンはちょっと照れ臭そうな声音でそう言うと、私の目の前のドアをがらっと開けた。

「あ・・・菊本。」

案の定井上クンだったわけだけれど、井上クンの頬はかなり真赤だった。私に聞かれた事に気がついて、もっと真赤になった。

「じゃあな。」

恥ずかしかったのか、心持ち早足で井上クンが昇降口の方へといってしまった。
彼女も、私がドアの前にいたことに気がついたらしい。照れくさそうに「告白されちゃった。」と呟いた。
私の脳みそは完全にフリーズしてた。こういうときって、なんて言えばいいんだっけ?
ああ、ああ、それでも、なんとしても、聞きたくはないけれど、これだけは聞いておかなくちゃいけない。

「付き合うの?」

自分の唇からこぼれた言葉があんまりか細かったので、私はびっくりした。

「別に嫌いじゃないからなあ。付き合ってもいいかなって思う。井上くんのことどう思う?」

何もいえない。何もいえない。覚悟はあったはずだ。
彼女はいつかどっかの、私じゃない男の人を好きになって、キスをして、セックスをして、その人に絶えず笑いかけて、その人のために泣く。
とにかく私じゃない、誰かに。
わかっていたはずだ。井上がどうのこうのとそんな事はどうでもいい。

「・・・どうでもいいよ。」

声に出してしまっていることに気づいて、私ははっとする。でも、今更とめられない。
今私の頬の上を流れている涙がもう私の目ん玉の中に戻っていかないのと同じように、後戻りなんてできないだろう。
彼女は私が泣いてしまったことに、とても動揺しているみたいだった。

「ごめん、もしかして井上くんの事好きだった?」

彼女は困ったようにいう。後頭部に手をやって、サラサラの後ろ髪をくしゃっと握る。

「ごめんね、じゃあ私井上くんとは付き合わないよ。」

彼女は何も言わない私を見て言葉を重ねる。やっぱり私が黙り込んだままなので、私をそっと抱き寄せて、

「ごめんね、これからは井上くんのこと応援するから。」

ずきんずきんずきん。私の心臓をちっちゃな小人がぶっとい針でつついてるみたいだ。
なんてバカなんだ。私も相当バカかもしれないけれど、彼女は私の20倍はバカだね!

私はどん、と彼女の肩をおした。彼女の、まつ毛の長い奥二重をきっとにらむ。

「ちがうよ。」
「ちがうって、なにが?」

彼女はとても困惑していた。彼女の奥二重が語ってる。T don’t know what you mean!
それでも私の涙が収まるどころかますますたくさん流れてるのを見て、何かがおかしいってことには気づき始めたみたい。

大丈夫。きっと彼女にこの思いを知られることはない。そう言い聞かせてきたのは私じゃなかったか。
それでも私は、この期に及んで私が「井上くんを好き」なんだと勘違いする彼女が最高に腹立たしくて悔しい。

私は彼女のブレザーの襟をぐっと掴むと、自分の方に引き寄せた。チュッとやるつもりが勢いあまって歯がガツン!
それでも私は彼女の襟をを放すと、また彼女の目をにらんでやる。

「私が好きなのは・・・私が好きなのは!お前だ!ばーーーか!」

言い放つと、胸のつっかえがすっきりした。私は自分の席にツカツカ歩いて行って、バッて鞄をとりあげて、ツカツカ教室をでていった。




家に帰った私は、ちょっと冷静になって「やっちまった―――――――っ!」とめちゃくちゃ落ち込んだ。
担任の先生には申し訳ないのだけれど、進路調査の紙を書く気力は全くなかったし、もちろん宿題なんてやる気はどこにもないし、
ついでにご飯を食べる気力もお風呂に入る気力もなかったので、全部を明日におしつけて私はベッドにもぐりこんだ。

とりあえず明日顔を合わせたときに誤魔化すためのパターンを30通りくらいシュミレートしてみる。
32通り目くらいで、やっぱり誤魔化すのは不可能だとさとり、どこかで誤魔化したくないと強く願っている自分がいることにも気付いた。
私はやっぱり彼女のことが好きで、好きで、実のところもう我慢できないくらいだったのかもしれない。

一緒に馬鹿げたいたずらやってくれるところも、くだらないメールにのってくれるとこも、大滝秀治のモノマネも、
そのサラサラの髪も、まつ毛の長い奥二重も、ぐずぐずのスニーカーも。
トマトが大嫌いなのも、困るとすぐに後ろ髪をくしゃってする癖も、全部、全部、大好きだった。

3年間近く我慢してきたからきっとこれからも大丈夫!なんじゃなかった。そんなにも長い間想ってきたからこそ、
もう限界値超えちゃうくらい彼女のことが好きになっていたのだ。

中学三年生の初めに出会ってから、今まで。
ふと、ちょうど1000日ぐらい彼女を思い続けているのだと知った。
1000日の夜を、彼女の事を思って、彼女からのメールを待って、眠ってきた。
私は今日も、携帯電話をぎゅっと握りしめて、
明日彼女がどんな顔をしていても、私がどんな顔をしていても、やっぱり彼女に会いたい。
そう思いながら眠りについた。

夕暮れ2センえんさつ
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