最終話


暖炉の隣に扉があった。手をかけたが鍵が閉まっている。ふと辺りを見渡すと、キーシャのすぐ隣、暖炉の上に鍵が置かれていた。
まるでキーシャがこの扉を開けることを予期していたかのようなそんな具合だった。置いたのはもちろんシェーンだろう。
ふとシェーンの気持ちに思いを馳せようとしたけれども、上では仲間たちが戦っている事を思い出す。感傷に浸っている暇はなさそうだ。
鍵をひっつかむと、キーシャは鍵穴にそれをねじ込んで勢いよく隣の部屋に飛び込んだ。


隣の部屋はどうやら寝室として作られた部屋だったらしい。天蓋つきの瀟洒なベッドが置かれていて広々としている。
少女はそのベッドの上で蹲っていた。勢いよく入ってきたキーシャの方を、怯えたような瞳で見つめた。

「…キーシャ……?」

不安げな声であったが、それは間違いなくサラのものだった。キーシャは胸に再開できた喜びと、無事だった事への安堵が一挙に湧き上がってくるのを感じた。
しかしそれは言葉に表せないものだったので、何も言わないでサラの方へ近づいて行く。それから正面からサラの事をぎゅっ、と抱きしめた。
長い間二人は一緒に行動を共にしていたけれど、こんな風に抱きしめるのは初めての事だ。だからサラは、驚いたようにキーシャの腕の中でみじろぎした。
サラの身体がこわばっているのが、その身体を腕で包むキーシャにはよくわかった。
しかしキーシャは腕を離そうとは思わなかった。離してしまったら、またどこかへ行ってしまいそうだったから。

「キーシャ、どうしたの。」

いつもと様子の違うキーシャに、頼りなさそうな声でサラは声をかけたが、キーシャは聞こえないふりをした。

「サラ、無事でよかった。病気は?もう平気?」
「…うん、平気。もともと少し調子が悪かっただけなの…その、あなたと少し顔を合わせづらかったから。」
「そんなところじゃないかって思ってた。」

キーシャはくすくす笑うと、ようやく腕の力を緩めた。そうすると、サラの瞳を見つめることができる。
キーシャとサラはお互いの腕を握りながらしばし見つめ合った。
どれくらい見つめ合っていただろう。それは数秒の事のようにも、あるいは何時間のようにもキーシャは感じた。
ようやくキーシャが口を開こうとした時、部屋の扉が唐突に開いた。勢いよく飛び込んできたのは満身創痍のトムやカンナ、スタンシャンパインである。

「キーシャ、無事か!」

スタンシャンパインは額から血を流しながら叫ぶ。二人が無事なのを見て安心したトムは、珍しく早口でまくしたてた。

「キーシャ、サラ、今はとりあえずここから逃げ出すぞ。じっくり話し合う時間は、後でたっぷりとれるさ。」

トムの言葉に頷いたキーシャはサラを抱え込んだ。傷だらけの一行は迅速な動きで地下牢から逃げ出した。










外に出ると既に夜が開けようとしている。一行は走りに走って、サラの閉じ込められたところから少し離れた小さな雑木林に逃げ込み、そこに停めてあった荷馬車に乗り込む。
荷馬車は二台用意されている。逃げ出すには商人のフリをするのが一番だと考えたアーサーが用意してくれたものだった。一台にはキーシャとサラが、もう一台にはそのほかの4人が乗り込んだ。

タッツリア帝国を抜けるまで荷馬車の中は緊張に包まれていたが、タッツリアの関所を抜けてしまってからようやくキーシャもサラも安堵で息を吐いた。
荷馬車には姿を隠せるように幌がかけられている。幌を少しめくると朝日がのぼっていて、荷馬車の周りに広がる大草原を赤く照らしていた。

キーシャはサラに笑いかける。

「もう大丈夫だよ。」
「…よかった、ありがとう、キーシャ。」

サラもふんわりと笑う。キーシャはサラのすぐ隣に腰をおろし、ああ、こうして二人で荷馬車にゆられるのは久しぶりだと思った。クルーザン首都に向かう時も二人で荷車に乗り込んだ。
しかし漂う空気はあの時と少し違う。今は、二人とも少しぎこちない。その事を感じているのはキーシャだけではないはずだった。


一方のサラといえば、幌の破れたところからさす日だまりをじっと眺めやりながら考え込んでいた。
もし無事にあそこから出る事が出来てまたキーシャに会う事ができたら、しっかりと彼女と向き合うことをサラは心に決めていた。
ちゃんと自分の気持ちを伝えるのだ。それで問題が全て解決するわけじゃないけれど、少なくとも何かの始まりにはなるはずだった。

「ねえ、キーシャ。」

意を決してサラは声をあげる。勇気がなくてキーシャの顔を見ることができなくて、いつまでも馬車の木張りの底にできた日だまりを見つめていた。

「一人になって色々考えたの。この間ね…あの雨の日の事ね。私が言った事ってすごく思慮がなかったと思う。
でもね。でも、嘘はないの。私は王女で、多分あなたの敵にもなりうる人間で、女で、きっとこの思いは言わない方がいいのかもしれない。でも、それでもやっぱりあなたが好きなの。」

皮肉なことに、攫われたことでサラのキーシャに対する思いはより深まっていったのだ。攫われてから、サラはキーシャの事ばかり考えていたのだから。
照れたようにサラは笑って、ようやく顔をあげてキーシャの顔を見ようとした。
サラの声はそれ以上は続かなかった。
驚いたのだ。思いのほかキーシャの顔がすぐ傍にあったので。
キーシャは一気にまくしたてたサラには返事をしないで、自分の唇をサラのそれに重ねた。
あまりに突然の事でサラは身動きが取れない。
キーシャはサラの真白な頬に左の掌をあてると、さらに深く口づける。右手でサラの背中を抱えこみ抱き寄せた。
サラはだんだん頭がふわふわしてくるのを感じたが、ふと唇が解放された。
目を合わせると、キーシャの瞳は切なげな、ちょっと苦しそうな色を持っていた。すぐにキーシャはサラをぐっと抱きしめる。

「愛してる。」

キーシャはそれだけ呟くと、その後は何も言わずにただサラの事を抱きしめていた。
キーシャの口調がとても切羽詰まったものだったので、サラはようやくキーシャも不安なのだと言う事に気がついた。
それから、もしかしたら彼女は人を愛することが初めてなのかもしれないと思い至る。そう考えると、サラは急に心が落ち着いてくるのを感じた。
その代わり、キーシャに対する愛しさが湧き上がってくる。キーシャの抱擁があまりに力強かったので少し息苦しかったが、サラは優しい微笑みを浮かべて、キーシャの背中を優しく抱きしめ返した。
先の事はわからない。しかし二人はようやくお互いの心が通じ合った事を、いまは純粋に喜びあったのであった。




















史実にこの戦いが語られる事はない。
表向きは何も変わらず、大陸に22:47 2009/11/13は相変わらずパブオン山脈が脈々と続いていて、その東にクルーザン王国が、西にはタッツリア帝国が、大陸の中心にはノエ公国があって、
大陸の民は彼らの生活を営んでいる。そしてその生活はこれからも続くのである。
ほんの数人を除いて、ノエの王女が自らの国を守るために逃げ回っていたことも、それに手をかした傭兵士がいた事も知らないのだ。
クルーザン王国ではセンが上に立ち、国をよくおさめた。クルーザン王国が蘇ったおかげで大陸のバランスは保たれた。首都の格差も是正されたと、キーシャは風の噂で聞く。
赤猫が率いた少人数の軍隊の事は『赤猫隊』というちょっとした都市伝説としてたびたび戦士たちの酒の肴になった。
現役を退いたかつての怪物たちが参加し、戦場での話題を独占していた赤猫が率いたその集団は、多くの戦士たちのあこがれになったのだ。
ただ噂には尾ひれがついて、赤猫が魔術でかつて戦場に散って行った軍神を蘇らせて率いたのだとかいうとんでもない噂にまで膨れ上がったが、
スタンシャンパインなどは面白がって自ら進んでその噂を流布することに努めた。









さて、噂の中心である赤猫ことキーシャは。
彼女も何も変わらない。内面はともかく、外柄は相変わらず、気分次第で戦に顔を出す一匹狼の傭兵士だ。
キーシャはやっぱり口のうまさで商人に声をかけ、行商の中途の荷馬車に乗せてもらっていた。御者は饒舌な男らしくしきりにキーシャに声をかける。

「あんた、故郷に帰るんだろう。」
「どうしてそう思うの?」
「なあに、俺はよく旅人を乗せるんだがね。あんたは故郷に帰る時みたいな顔をしているよ。自分で顔がほころんでいるのはわからねえのかい。」

御者は快活に笑う。キーシャがその言葉を聞いて、不思議そうに頬を撫でた。そんなに緩んだ顔をしていただろうか。

「故郷に帰るわけじゃない。」
「へえ、じゃあノエ公国に何の用で?」
「会いたい人がいるんだ。」
「なるほど、きっと大事な人なんだろう。」

御者はそう言って、馬の尻をぴしゃりと叩いた。
キーシャに故郷はなかったが、確かに故郷に帰る人間はこんな心持なのかもしれない。キーシャに帰るところがあるとすればサラのところだからだ。
キーシャは荷車の上の荷物にもたれかかったまま空を見上げた。気持ちの良い青空に、キーシャも気分がよい。

「ああ、世界で一番大事な人だ。」






                                                                                                                             完
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