第二十七話


地下は最初、まさに牢のような細い石造りの道が続いていた。
灯りは入口に置かれた松明一つだったのでとても暗いが、道は案外短かくすぐに出口に行きついた。
出口にはいかにも重そうな鉄扉があって、ひっそりとしている。
キーシャは、迷うことなくその鉄扉を引き開けた。

今まで通ってきた道とは相反して、鉄扉の向こう側は明るい。そこは豪奢な広い部屋だった。
地下だから窓こそなかったけれども、部屋の端には重厚な暖炉が設えてあり、その中で赤い炎がぱちぱちと爆ぜていた。
絨毯は丁寧に織られた高級そうなものだったし、石造りの壁には鹿の首の剥製だとか、豪勢な額縁に入った写真とか、貴族や王族のそれらしいものが飾られている。
壁際に置かれた棚には、高そうな酒がいくつか並べて置かれていた。
暖炉の前のふっくらとしたカウチソファから一人立ち上がるものがある。

「シェーン。」

そこに立っていたのは、シェーン・バンドその人だった。
驚きは少なかった。サラが攫われたあの日、あのスラリとした簒奪者を見て、その鋭い漆黒の双眸を見て、キーシャはもしかしたらと思っていたからだ。あの簒奪者はやはり、シェーンだった。
シェーンはまったく無表情だった。無表情なのはパブオン山脈で出会った時と何も変わらないが、無表情にも色々ある。あの時の無表情は今と違い、決して冷たくて無機質な表情などではなかった。
だからキーシャは呟く。

「シェーン、どうして…。」

シェーンはキーシャの問いに答えようとはしなかった。聞こえていなかったように、静かにキーシャに挨拶する。

「こんばんは、赤猫。待っていました。」

その声を聞いて、目の前の女がシェーンであることはもはや疑いようがないのだとキーシャは悟った。キーシャは唐突に、パブオン山脈でのあの日々を思い出した。
サラに憎まれ口を叩かれながら、気の良い四人の兵士とシェーンと共に険しい山脈を歩き続けた。
キーシャは契約のためにその場にいたけれど、しかし一行の中には確かに言葉には出来ぬ連帯感のようなものが漂っていたではないか。

「他の、一緒にいた兵士はどうした。イキストエフ伯の館で確か…。」
「殺した。」

シェーンの声は、いたって淡々とした調子だった。

「私が殺した。あなたとお嬢様が川に落ちたので色々計画が狂ってしまった。だから兵士たちは邪魔になったので、私が殺したのです。」

キーシャは何も言えず、シェーンを見つめた。信じられなかったのだ。あんなにも部下として兵士たちを可愛がっていたではないか。
シェーンは多くを口にする女じゃない。でもその愛情は確かに感じられたはずで、兵士たちもシェーンを信頼していた。
全部、ウソだったというのだろうか。

「全部演技ですよ。」

何かが崩れたように、いや、何かを崩すように、シェーンは笑った。狡猾で、意地の悪い笑みだった。どうやらキーシャの戸惑いを正確に見抜いているらしい。

「お嬢様の世話を焼いていたのも、兵士たちの人気を得るために必死で剣を振るったのも、全部このために。」

シェーンは、何か物思いに沈むかのような表情になると壁際まで歩いていき、写真の入れられた額縁を撫でた。写真にはどこかの家族が写っていた。

「もとは、クルーザンの連中に復讐したかった。しかしタッツリアの皇帝の話を聞いて、私の本当の敵はノエだと知りました。」

シェーンの仮面は次第に崩れ始める。とても冷やかな声だった。

「知っていますよ赤猫。あなただってこちら側の人間でしょう。私たちはよく似ている。遠い昔クルーザンに、いや、ノエに家族を奪われた。」
「家族を奪われた?どういうことだ。…シェーン…。いや、そうか、シェーン…バンド!」
「なんとも単純な偽名でしょう?赤猫。私はドンバ王国の誇りを忘れないようにその名を刻んだのです。」
「あんた、ドンバ王国の末裔だったのか。」
「別に驚くことじゃないでしょう。あなたはブラッド王国の末裔なのだから。どうやらノエ公国のちょっとしたお国情勢のために、私は両親と、兄上を殺されたらしい。あなたと同様に。」
「それで?サラを奪って、タッツリアに手を貸しているというわけか。」
「タッツリアなどどうでもいい。私はノエ公国に復讐出来れば良い。復讐のために、タッツリアに少し手を貸してやったに過ぎない。利害が一致したというところでしょうね。」
「サラを…どうするつもりなの?」
「とりあえず、皇帝がノエを脅す材料にするという話だから、しばらくはこのままでしょう。タッツリアの皇帝は、この大陸を支配するつもりらしい。皇帝の用がすめば、私が殺す。」

殺す、その言葉を聞いてキーシャは自分の頭に、一気に血が上るのを感じた。

「何を怒っているんです、赤猫。あなただって、ノエを恨む立場にあるでしょう。」
「私には国の情勢なんて興味ない。私は国を持った事がないからね。ノエだの、タッツリアだの、ブラッドだの、そんなものは知った事か。」
「あなたらしい。」
「私は、サラを取り戻しに来た。それだけだよ。」
「どうやら、話しあいは無意味のようですね。」

そうして、シェーンは棚に立てかけてあった剣を手に取ると、またキーシャの目の前ほど近くまで歩いてくる。スラリと、輝くその刀剣を鞘から引き抜いた。

「刃で語るしかないようです。」

キーシャは自嘲気味に笑ってから、ゆっくりと愛用の槍を構えた。

「いいね、それは私好みの解決方法だわ。」
「後悔するな、赤猫。」

一拍置いて二人は同時に動き出した。激しい音を打ち鳴らし、互いの剣と槍の刃を重ね合った。それからたちまち激しい戦闘が始まる。一見、二人は互角のようだった。
キーシャは驚かされる。パブオン山脈で、追っ手相手に見たシェーンの腕前はどうやら手抜きであったらしい。あの時よりもシェーンの剣の腕はずっと手だれていた。

「こんなに手応えある相手、久しぶりだよ。」
「復讐するために、剣しか振るってこなかった。それで強くなれなかったら、ウソでしょう。」

キーシャが隙を見つけたと思って槍をつけば、あざやかな剣さばきでシェーンがそれを交わし、とって返す刃でキーシャに攻撃を加える。
キーシャもまた、俊敏な動きでその剣戟を避けた。キーシャはふと、いつかシェーンに言われた言葉を思い出した。キーシャを雇うとシェーンが決めた日、彼女に言ってみせた言葉だ。

『私達は、サラ様の護衛である前にノエ公国の家臣です。私たちは何よりも「国」を守らなければならない。もしかしたらとても不本意な選択をしなければいけない日がくるかもしれない。
だから、「サラ様自身」を守ってくれる方がいてほしかったのです。』

あの言葉には本当にサラに対する愛で溢れていた。確かに今、キーシャはサラ自身を守るために剣を振るっている。しかし、あの言葉も全部ウソだったんだろうか。

「あんたは、本当にサラを大切にしているように見えた。私にはあんたのサラへの愛は本物のように見えていた。それも全部、ウソだったのか。演技だったのか。」

息も絶え絶えにキーシャが言う。息が切れているのはシェーンも同じだった。シェーンは突然激情したかのように叫んだ。仮面の最後の一かけらが剥がれ落ちたようだった。

「ええ、嘘ですよ。……そう、全部嘘だよ、赤猫。サラへの愛?冗談を言うな!他人の不幸の上で、へらへらと幸福そうに王女として立つ人間を、愛する事なんて出来るか。
赤猫、あんただってそう思うだろう。」
「思わない!私はサラを愛している。」

キーシャが力を込めて振るった槍の一撃で、シェーンはわき腹に傷を負った。しかし、キーシャも右肩に傷を負っている。シェーンの渾身の刃が入ったものと思われた。

「幸福そうに王女として立つ?本気で言ってるのか、シェーン。あんた、幼いころからサラの護衛だったんだろう。ずっと見てきたんだろう。
それでもそんな風に思うとしたら、あんた頭がどうかしてるよ。サラの王女としての苦しみを間近で見てきたのは、あんたでしょ?」
「それでもサラはノエの王女だ!私の敵なんだ!お前だって孤独だっただろう。幼い身で、頼れる人間もおらず裸で世間に投げ出される苦しみを、お前だって知っているだろう。
赤猫、お前だって、自分をこんな孤独に引きずり込んだのは誰だと、責めた事があっただろう。
それがノエ公国だと知った時、お前に全くサラを責める気持ちがなかったと、そう言い切れるのか?
サラの幸福な笑みは我々の犠牲の上に立っているのだと、悔しく思ったことはないのか?」

再び、二人の武器の刃が交差する。キーシャは、ぎりりと歯を食いしばった、それからシェーンをにらみつけて、最後に渾身の槍の一突きをシェーンに喰らわせた。
それはみごとにシェーンの腹に命中した。
シェーンは、ごぼりと血をひと固まり吐き出すと、膝から崩れ落ちてしまった。
存外に深かった右肩の傷から血を滴らせたキーシャは、槍でなんとか身体を支えながら、そんな彼女の様子を睨むように見ていた。
それからシェーンに向かって、言い放つ。

「あんたに何が分かる、シェーン。あんたが何を知っているんだ。あんたの苦しみがあんたのものであるように、私の苦しみは私だけのものだ。誰のせいでもない。サラのせいじゃない。
私たちに苦しみがあるようにサラにだって苦しみはあるはずだろう。あんたは、本当にサラの事、何も見えていなかったんだな。あんた、なんにもわかっちゃいない。」

崩れ落ちたシェーンは、立ち上がろうと腕に力を込めた。意識があるのが不思議なほど、すでに大量の血を失っていた。
立ち上がる事はかなわず、今度は仰向けに倒れてしまう。
しばらくはシェーンとキーシャが息を切らすはあはあと言う音と、火の爆ぜる音だけが部屋に響いていた。
それからようやく、シェーンが弱弱しい声をしぼりだす。声はくぐもって聞こえづらかった。
ほとんど意識が混濁しているようでもあった。

「………わたしが何もわかっていないだと、馬鹿いうな赤猫…。わかっているに決まっているだろう……。
私が何を知っているかって……?なんだって知ってるよ………ああ、お嬢様の事ならなんでも知っている。
……そう、お嬢様は、天体の授業はあまりお好きではないが、歴史の授業は大好きだ…ピアノはあまり得意じゃないが、ヴァイオリンを弾かせたら、ノエ公国では随一でしょう。
…ああ…そうだ、そうだ。アネモネの花が大好きで、肉料理が大好きだ。…そうして何よりノエの民の事が大好きだった…。
…動物が好きで猫を可愛がりになるが、虫は得意ではなく、特に飛ぶ虫は見るのも嫌だと言いなさるが、……殺生はお嫌いなので、部屋に虫が出ても隠れながらそっと外に出てゆくのを待っている。
…寒いのが苦手なのに冬が大好きでいらっしゃる。…ふふ、大きくなられた今でも、雪が降ると大層お喜びになる……。」

「…全部わかってるさ。お嬢様の目に映る私は、…胸を掻き毟るほど憎いかたき相手でも、一生を共にしたいと願う愛する人でもなくて、…優しくて冷静な一護衛なのだということは…。」

シェーンのまなじりから涙が一つ、二つとこぼれて絨毯を濡らした。
キーシャはそれを見て、脱力したかのようにシェーンの傍に膝をついた。キーシャもたくさんの血を失っていた。

「……それから、あんたを一目見た時ピンときた……きっとお嬢様は赤猫の事が好きになる……そう思った。」

シェーンは涙を流しながら少しだけ笑う。シェーンも笑って話す事があるのだと、キーシャは思い出した。

「シェーン…あんた、愛していたのか、サラの事を。」
「…愛していた?………私には愛なんてものは、…わからないね、赤猫。…とうに忘れてしまった…。私の家族が殺されたときに…。」

シェーンの口調はどんどんおぼつかなくなってゆく。次第に、喉の奥でひゅうひゅうという奇妙な音を出すようになった。苦しそうであった。

「…赤猫、…頼みがある…頼みがあります。」
「なんだ。」
「…私が敵だったと、言わないでほしい。攫う時も、私は最後まで、お嬢様の前で顔を露わにはしなかった……だから、お嬢様には、…隠しておいてはもらえないだろうか。」
「…ああ、分かったよ。」

サラは聡い。きっと攫われた時、その正体に気が付いている気がした。シェーンもその事は知っているのじゃないかと思う。
だけれども、キーシャはシェーンの言葉に頷いた。

「赤猫…。」

シェーンの声はいよいよ頼りないものになってきて、ほとんど聞きとることが難しかった。キーシャは耳を、シェーンの口元に寄せた。

「赤猫、いや、キーシャ、キーシャ……どうか、どうか…お嬢様を…。」

キーシャはその言葉の続きをまったが、ついにそれがシェーンの口から紡がれることはなかった。
シェーンは事切れたのだ。言葉は最後まで続かなかったが、シェーンの言いたい事は十分にキーシャに伝わった。

「ああ、もちろんだよ…。」

キーシャのつぶやきが寂しげに、しかし力強く静かな部屋に響いた。

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