第十話


怪我のせいで幾分苦労しながらもキーシャが断崖を登りきると、視界がぱっと開けて、今までの鬱蒼とした杉の並木とは違う世界がそこには広がっていた。

サラは目を疑った。そこは、パブオン山脈の最中にあるとは思えないほど長閑な風景だったからである。
目前には丸太で作られた大き目の小屋が建てられていて、その脇にはごくささやかな小川が流れていた。
小屋の周りで数羽の鶏が地に這う虫をついばんでいるのがサラの目に映る。
青い空の下で色とりどりの花が咲き誇っていて、郷愁をそそられるような穏やかな情景であった。
小屋の前には、小さめの畑が広がっている。その中で誰かが植えられた野菜の世話をしているようだった。

「エミリア!」

キーシャが叫ぶ。その声は、初めて聞く声色だった。
おぶられているから顔は見えないのだけれど、無邪気に弾んだ声は幼子のもののようだったのだ。
その人物ははたと顔を上げる。キーシャ達に気づいてゆっくりと近づいてきたが、二人が怪我をしていると分かるや相手は小走りに駆け寄ってきた。
キーシャも駆け寄っていったが、その足取りは怪我の事などどこかに忘れ去ってしまったかのような軽やかなものであった。
少なくともサラはそう感じたし、キーシャのまとう空気が喜びに満ちているのは疑いようもなかった。


「キーシャじゃない!」




エミリアと呼ばれたその女性は、とても美しかった。
城の中でサラにかしずいていた侍女は国王が選んだ美しい女性ばかりだったけれど、そんな彼女たちと比べてみてもエミリアの美しさはひけをとらないどころか、十分余りある。
風にそよぐ長い髪は濃く淹れた紅茶色をしていて、いかにも柔らかそうだった。年のころはキーシャやサラよりも少し上だろうか。
都会の洗練された美しさとはまた違った、牧歌的で素朴な美しさをエミリアは持っていて、そのこげ茶の瞳には彼女の優しさで溢れている。
最初キーシャとの再会がうれしかったのであろう。エミリアは優しげな微笑みを浮かべていたが、二人の傷が思いのほか酷かったせいだろうか。
すぐにちょっと叱るみたいな、怒った表情になる。

「また、そんなに傷ばかり作って。」

そう言うエミリアに向かってキーシャは「大した傷じゃないよ、私のは。」と言ってみせたけれど、その声色は母親に対して強がる少年のまさにそれであった。

「あなたは丈夫だからいいかもしれないけれど。そちらのお嬢さんはとても疲れているようね。早くベッドにお連れしなさい。」

そんなキーシャを見て少しあきれたかのようにためいきをついてから、エミリアは子供を諭すかのように優しくそう言うと、サラとキーシャを小屋まで案内する。









小屋の中は外から見るよりも随分と広かった。
部屋はおそらく二部屋あるものとみえる。最初に入った一室はゆったりとした居間で、レンガ造りの暖炉を中心とした、温かみにあふれた部屋だった。
エミリアはその部屋に隣接したキッンの方へ真っ先に足を運んで行く。
逆にキーシャは、勝手知ったる他人の家、といった風情で部屋の奥まで進むと、
隣の部屋―――ベッドが一つと箪笥が一つ、それからささやかなサイドテーブルが置かれているだけの寝室だ―――に入っていって、そのベッドの上にサラを寝かせた。

「私よりも、あなたの怪我の方が。」

サラは上半身を起こしてそう言おうとしたが、キーシャにその華奢な肩を押さえられてしまう。

「私は丈夫に出来てるの。サラ、怪我は足だけだって自分では思っているでしょう。でも、慣れない長旅でぐったりしているよ。
私は床でも空の下でもどこでも休めるけど、サラはちゃんとベッドで寝た方がいい。」

いつもはおどけているくせに、こういう時ばかりはとても真剣な顔でサラを見つめてくるものだから、サラはちょっとドキリとしてしまう。
なんで私がドキリとしなくちゃいけないのかしら、そんな事を思いながらもサラは返事の変わりに、麻の枕に自分の頭を深く沈みこませた。

「エミリアさんは?」

半分照れ隠しに、覚えたての名前で、彼女の所在を聞く。

「エミリアは薬草の準備をしているはずだよ。彼女の薬草の知識はすごいんだ。彼女に調薬させたら、右に出るものはこの大陸の中にはまずいないんじゃないかな。」

薬草、という言葉を聞いてなんだか幼いころに読んだ絵本に出てきた魔女を思い出してしまう。
森の中でひっそりと暮らしていて、迷い込んだ子供たちを食べてしまう、そんな魔女。

「私の薬草の知識は彼女から得たものなんだ。」

キーシャはうれしそうにいってから、「その知識をサラにも分けたわけだから、サラにとっても薬草の師匠なわけだね。」とサラに笑いかける。

そこで、エミリアがいくつかの薬草の一式やら、すり鉢やら、薬の小瓶やらを抱えて入ってきた。キーシャはおとなしくサラの脇をエミリアに譲る。
エミリアはあらためてサラを見て、にっこりと笑いかけた。

「なんて綺麗なお嬢さんなんでしょう。私はエミリアよ。ゆっくりしていってくださいね。さて、どこが痛いかしら。」

サラは、もし彼女が魔女だったなら、それにしては優しくて美しい魔女だ、とぼんやり考える。
そんなサラをよそにエミリアはまず腫れあがった左足を検分する。
エミリアはいくつかの薬草をすりおろして、小瓶に入れられた粉末を混ぜ込んだ薬剤をサラの左足に塗りつけ、布でくるんだ。
ひんやりとして、それだけで気持ち良かった。不思議と、ああこれは早く治りそうだ、とサラは確信をもてた。
それから旅で負った小さな傷を、汚れた身体を拭いながら手当してくれた。
(その間キーシャは追い出された。「私だって女なんだからいいじゃない。」とキーシャは言い張ったけれども、エミリアは何も言わずに彼女をしめだした。)
その手はとても優しくて、彼女に手当をしてもらうだけですっかり元気になってしまうみたいだった。
一通り治療を終えて、今度は力をつけるためだというエミリア特製の薬草スープを一杯飲む。あまり美味しい代物ではなかったけれど、食道や胃がじっくりと温まる心持ちがした。
そうして全てが終わると、エミリアはゆっくりとまたサラをベッドに横たえた。
今までは気概だけでなんとかやってきたサラだけれども、ようやく休める場所に行きついて疲れがどっとあふれたらしく、
しゃべることすらままならないほど疲弊していたから、おとなしくエミリアに従った。エミリアは枕に片頬をうずめたサラに向かって、慈愛に満ち満ちた微笑みをうかべる。
サラはその外見のおかげで自身が「天使のようだ。」と形容されることがよくあったけれど、「エミリアは女神さまのようだ。」とそんな事をなんとなく思った。

エミリアのベッドはシーツも枕も麻で出来ていて、王城の絹のベッドと比べてしまえば硬くて味気ない代物だったけれども、
その暖かさと心地よさは王城のベッドよりもずっと素晴らしかった。
ほっとしたせいかちょっと涙ぐみながらも、その心地よさにサラはひたっているとエミリアの後ろからひょいとキーシャが顔をのぞかせる。
どうやら全てが終わったのでこちらに戻ってきたらしい。
この数日間ですっかり見慣れたキーシャの顔を見ると、さらに安堵できた。実際は彼女の背中ばかり見ていたのだけれども、とにかくキーシャの存在が、サラをほっとさせる。
ゆるんだサラの頬を見て、キーシャもにっこりと笑う。サラの真白なおでこに大きな掌をあてがって、「ゆっくりおやすみ。」とおだやかな声で言う。

しかし、そのキーシャの手をみて驚いたのはエミリアだ。

「キーシャ!あなたその左腕どうしたの?」
「ほっといたら治るかと思ったんだけれど、思いのほか悪化しちゃって。」

またもイタズラを見つけられて叱られる少年のような口調でキーシャは言い訳したが、その腕をつかんで、エミリアは化膿ぎみの傷を検分する。
それからキーシャの顔をじっと見つめて、エミリアは右手の掌でキーシャの頬をそっと包むように触る。

「あまり心配、かけないでちょうだい。」

エミリアの下がり切った眉尻は、本当にキーシャを心配する気持ちで溢れていた。
キーシャのほうが大分背が高いから実際キーシャを見上げているのに、エミリアはキーシャをあたたかく包んでいるみたいに、サラの眼には映った。
キーシャも彼女らしくないほどしおらしくなって、ごめんなさい、なんて呟いている。
それからエミリアは、「さっさと手当てするわよ。」とキーシャの腕をひいて隣の部屋にいってしまう。
もちろん部屋を出る際「ぐっすり寝なきゃだめよ。」とサラに笑って言い添える事も忘れないエミリアであった。そして、キーシャもそんな彼女におとなしくついていく。



いつもと違って随分と素直なキーシャ。
眠気のせいでとろとろする頭を抱えながら二人を見送ったサラは、そんなキーシャの様子を可笑しく感じながらも、なぜだか胃がざわざわと気持ち悪くうごめくのをかすかに感じたのだった。



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