第十一話


サラはすっかり日が落ちて暗くなった寝室の中ではたと目を覚ます。
ここはどこだろう、とぼんやり考えてから、ああ、ここはエミリアの小屋の中だ、とようやく思い出す。
麻のシーツは汗で少しべとついていたけれど不思議と心地よく感じる。やはり相当疲れていたのだろうか、ぐっすりと眠ってしまっていたようだ。
まだ少しけだるくて、熱っぽい。サラは重い額に掌をあてて窓の外を見る。
どれだけ寝ていたのだろう。判然とはしないけれど、とにかく外はすでに暗い。
少し欠けた月が、窓から望む山山の上にかかっていた。
まだもう少し寝ていたい気もしたけれど、サラはとりあえず起き上がる。眠ってしまう前にはエミリアにろくに挨拶もしなかった。それほど身体も心も疲弊しきっていた。
ともかく、隣の部屋にいけばエミリアもキーシャもいるだろうか。
ベッドから出て裸足のまま床を歩く。木製の床はひんやりとしていて火照った足裏に心地よい。左足の腫れと痛みは既に少し引いたようだった。


サラはドアをそっと開けて、隣の居間に顔を出す。


そちらの部屋では暖炉で火を焚いているらしく、部屋全体が炎の温かなオレンジに包まれていた。
キーシャとエミリアは、暖炉の前ではなくてキッチンのほうにあるテーブルで向かい合って座っていた。
二人は何やら楽しげに話していてサラには気づかない。
テーブルの上にはランプが置かれていて、ランプの白熱灯の暖色が暖炉の火の光と混ざって、オレンジ色に二人の顔を照らしていた。
その情景が暖かな一服の絵画のようで、サラは声をかけるのも忘れて見入ってしまった。額を寄せ合う二人は本当に仲がよさそうだ。
サラはそんな二人を見て、寝る直前に感じた奇妙な感覚を再び味わうことになる。胃の中がざらりとして気持ち悪い。
目の前の二人の仲睦まじさは美しいほどのものなのに、どうしても素直にそれを認めることが出来なかった。
一度声をかけるタイミングを失ってしまって、サラはドア越しにそのまま二人を見つめていた。

やがて、エミリアがテーブルの上に置かれた盆にのっていたリンゴを手に取ると、盆の傍に置かれていた小型のナイフで皮をむき始めた。
大方キーシャがりんごを食べたいとエミリアにねだったに違いない。そうサラは思った。
エミリアは器用に、スルスルとりんごを剥いていく。垂れ下った細い皮の端をキーシャが持ち上げて、物珍しそうに見ている。

その瞬間、エミリアが手を滑らした。あ、とサラも小さな声をあげてしまう。
エミリアの指から真っ赤な血がぽたり、とこぼれた。
不思議と、オレンジ色に染まる一室に映えたその赤色を、サラは美しく感じる。
きょとん、とそれを見ていたキーシャは苦笑したようだった。サラのいる位置からして、キーシャの表情だけはよく見えた。
少しあわてた様子のエミリアの手を取ると、赤く細い筋を流す指に唇を寄せる。
小さく、キーシャの赤い舌がのぞいたかと思うと、彼女はエミリアの怪我した指をちらりと舐めた。その顔は、何気ない穏やかな顔だった。

それに反して、動揺したのはサラだった。
頬にカッと血が上って、ざわざわしていたはずの胃がちくちくと痛みだす。その痛みはサラの内腑をせりあがって、胸のところをズキズキさせた。
サラは二人を見ていられなくて、再び寝室にとってかえす。
なぜ、こんなにも動揺しているのかサラ自身にもわからなかった。
胸が、とにかくひどく傷んだ。
この気持ちを形容する言葉をサラは持っていない。今までに味わった事のない感情だったから。
自分自身よくわからない感情に対処しあぐねたサラは、ごろんとベッドに横になる。額に掌を当ててみると、心なしか熱っぽかった。

そう、熱のせいで、こんなにも気持ちが不安定なのだ。

サラはそう言い聞かせて、ぎゅっと目を瞑る。それから、何かに逃げるように再び眠りの世界に入っていった。













次に目を覚ました時は外が明るかった。
頭も、夜よりかは幾分すっきりしているような気がした。
隣の暖炉がある広い部屋へとはいっていくと、エミリアがキッチンに立っている。
今度はサラが入ってきた事に気付いたようで、「おはよう。」とにっこりほほ笑む。

「良く寝ていたわね。丸二日、寝ていたのよ。」

エミリアは、「よほど疲れていたのね、少し熱もあったし」と言いながらサラの方へ近寄ってきて、額に手をおいてみせる。
ほんとは一度起きたのだけれど、サラはその事は言わないでおく。

「熱は下がったみたい。さあ、ここのテーブルに座って。今消化に良いスープをいれましょう。」

ふふ、と笑いながら楽しそうにキッチンに戻っていくエミリア。
その笑顔はとても優しくて、サラはほっとする。あの夜感じた胸がざわつく思いはエミリアに対する反感ではなかったようだ。
そのことに安堵しつつ、サラはエミリアの言うとおりテーブルに座る。
「召し上がれ。」
エミリアがサラのために拵えた野菜スープは、エミリアみたいな優しい、ふんわりした味がした。あんまり美味しいので、サラは一皿ペロリと平らげてしまう。

「とてもおいしい。エミリアさん、ありがとう。」
「あら、エミリアで大丈夫よ。サラ。」

そう言ってくれるエミリアにサラも微笑む。お口に合うようでよかった、なんてエミリアはうれしそうである。

「本当に色々ありがとうございます。足も、大分よくなったみたい。」

サラはあらためてお礼をいう。左足はあきらかに腫れがひいていたし、歩けばさすがに痛むけれど、格段に快方に向かっていた。
腹心地もついて、辺りをキョロキョロ見まわしているサラに向かってエミリアは言う。

「キーシャ、外で陽に当たってるの。あの子陽の下でお昼寝するのが好きなのね。体調よくなったところ、見せにいってくれてあげる?心配してたもの。」

そんな言葉にサラは―――自身は気づいていなかったが―――満面の笑顔でうなずいた。





外に出ると、うららかな春の日差しがサラを包んだ。
ココ、と小屋の周りに放された鶏が声を上げるのが聞こえる。
辺りに咲き誇る花々は、見ているだけで優しい気持ちになれる。
サラは辺りを見回す。
ちょっと小高くなっている丘のような場所に一本背の低い木が生えていて、そこの根元に見慣れた赤色をみとめたサラは、そちらの方へ近寄っていく。




キーシャは木の根元に背中を預けて眠っていた。辺りいったいにたくさんの白詰草が生えていて、キーシャの赤い髪を目立たせていた。
起こしてしまっては悪い、そう思ったサラは、キーシャの隣に静かに腰を落ち着けた。
そっとキーシャの顔を見つめる。いつもはおどけた顔の下で警戒を解く事のないその顔は、眠っている時は子供のように少しだけ緩んでいる。
旅の間中も一緒にいたからキーシャの寝顔は見たことがあったけれど、ここまで安心しきった顔で眠っているのは初めて見た。
浅黒い肌に木の枝葉が陰を作っている。綺麗だなあ、純粋にサラはそう思ってから、今までしっかりとキーシャの顔を見ていなかったんだと今更気づいた。
旅の最初はろくに顔を合わそうとはしなかったし、後半はおぶさっていたせいで彼女の肩口ばかりを見ていた。
キーシャのうすい唇を見てから、ふと昨日(もしかしたら、一昨日かもしれないが)キーシャがエミリアの血をなめとった赤い、小さな舌を思い出して、胸がドキリとした。
なんだか、また胃のあたりがざわざわしている。今度は不快というよりもむしろ、興をそそがれるような感じがする。なんだかわけもわからず、彼女の唇をただ見つめていた。


しばらくそのままでいたら優しい風が吹いて、ふ、とキーシャが目を覚ました。
彼女はサラの方を見やると、ふわっと笑う。キーシャには珍しく、柔らかな笑みだった。
だからサラの心も、ふわっと浮き上がって、おまけにちょっとだけ苦しくなる。
キーシャは何も言わないまま、優しい目をしたまま、そっとサラの長めのブロンドの髪を触る。ごくごく優しい手つきでその柔らかな髪をもてあそんでから、一言つぶやいた。

「ほんとの天使がおりてきたかと思った。」

さらさらと、相変わらずサラの毛を細くしなやかな指で梳る。
キーシャがそんなセリフを言いながらも至極真面目な顔つきだったので、サラはなんだかおかしくなってきて、ついくすくすと笑ってしまう。

「何それ。」
「いや、ほんとに。」

サラに笑われてようやく照れくさそうな顔になったキーシャは、今度は少し荒くサラの髪をくしゃっと撫でた。
そうする時、キーシャはたいてい照れ隠しをしているか、サラをほめたり励ましたりしているときだ、とサラは既に悟っていた。

「どう、調子は。」
「とても良いわ。エミリアの薬がきいたみたい。」
「そう、よかった。」
「そういうキーシャこそ。あなたの方がたくさん傷ついていたじゃない。」

キーシャはニヤッと笑う。

「赤猫をナメてもらっちゃ困るなあー。ほら。」

キーシャは腕を掲げて見せる。あれだけたくさんの傷があったのに、ほぼ治りかけている。恐ろしいほどの治癒能力だ。

「私、本当に傷の治りが早いの。おまけにエミリアの薬は大陸一だからね。」

そういってみせるキーシャに、サラは笑って頷いた。
その木の下は適度に涼しくて心地よかったので、二人はしばらくその木の下で穏やかな風に吹かれていた。

キーシャはゆったりとまどろみながら、サラは、鳴りやまない胸の鼓動に当惑しながら。


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