キーシャは足取りも軽くパブオン山脈の険しい山道を登っているところだった。
足取りが軽かったのは、サラと共にエミリアの小屋に向かった時とは違い体調が万全だったせいもあるが、何よりもサラに報告したい吉報があったせいである。
エミリアの小屋に到達するには、クルーザン側から登る時も少々険しい岩場を突っ切らなければならなかったけれど、普段のキーシャからしてみればそれは造作もないことだった。
そこを越えて鬱蒼とした森を2時間ばかし歩けば、エミリアの小屋はすぐそこである。久しぶりにサラに会う事ができるかと思うと、キーシャは純粋にうれしかった。
もう少しで森を抜けようとしたところで、水の音を聞いた気がした。
そういえば、この辺りには確か泉がわいていたはずだ。エミリアのもとを訪れる際にはそこで水浴みをするのがキーシャの常だった。
ふと懐かしくなって、ちょっと寄ってみようかという気になる。
泉はごつごつとした岩の中でひっそりとわいている。けぶるように霧がたっているが、水は美しく透き通っていたものだが。
なんとなく近寄っていたキーシャではあったが、パシャ、という水音を聞いてようやく泉に誰かがいるのだと悟った。
霧の中でまずキーシャの目に入ったのは、その真っ白な裸体だった。それからその滑らかな肩にかかるブロンドの髪が見えたので、それがサラであると分かった。
一瞬、キーシャはその姿に見とれた。以前までかなり年下だと思っていたせいもあってか、彼女が自分とさして年齢が変わらないのだとしった後もサラを幼い少女だと見ていた節がどこかにある。
しかしその裸体は思った以上に大人びていて、成熟した女の美しさを持っていた。また、水浴みを楽しむサラの表情は確かに楽しげであったものの、ほんの少し物憂げだ。
それがまた、彼女の美しさを一層に引き立てていた。
一瞬のうちにそういった光景を目にやきつけてから、あわてたようにキーシャは泉に背を向けた。女同士なのだし別段気にすることでもないはずなのに、
「まさか王女がこんな外で水浴みをしているなんて思わないじゃないか!」なんて誰に対してなのかもわからない弁解を心の中でつぶやいたりもする。
とりあえず息を落ち着かせながら、そっと泉の傍を離れる。もしキーシャに見られた事にサラが気づけば彼女の性格からして激怒するだろう。
冗談でなく、そこらに転がっている小岩を手当たり次第投げつけてくるに違いあるまい。何せ前科がある。
森の中を静かに歩きながら、キーシャはうなる。サラの裸体があそこまで美しいのにも驚いたけれど、たかだか女一人の裸を見てしまったくらいでこれほどまでに動揺している自分にも驚いていた。
ふと、またあの真白な身体を思い出して赤面してしまう。
つるりとした肌、ほっそりとした首筋、それから適度な膨らみのある乳房―――
そこまで思いだしてから、キーシャは首を振る。
余計な事を考えるのはやめよう。ますます混乱するではないか。
はたしてこの動揺は、他人の裸を見てしまったからおこったものなのか、それともそれがサラのものであったからなのか―――。
そうした事に頭を悩ませる前に、キーシャは思考することをやめてしまった。
水浴みから戻ったサラにキーシャは自らの帰還と吉報を告げた。
「タッツリアやノエに関する情報はあまり手に入らなかったよ。片田舎だし、町人たちはあまり国勢には興味がないようだったし。」
「そう・・・。」
「それでも、ちょっと良い情報は手に入った。」
「なにかしら?」
「すこし前に、ある旅人風の人間が町に現れて、町中の人間に聞いて回ったらしいんだ。『赤い髪をした女と、ブロンドの髪の美少女の二人連れは見なかったか。』と。」
「それって・・・?」
「タッツリアの人間かと私も肝を冷やしたんだけれど、よくよく聞いてみるとそいつはたった一人で、しかも一見痩躯の男性には見えるものの、高身長の女性であったらしい。」
「まさか!シェーン!!?」
「多分間違いない。鋭い漆黒の双眸を持っていたって言っていたし、その辺りの男よりよっぽど凛々しく礼儀正しかったと町人は皆口をそろえていたから。
そんなやつまず他にいないよ。もうその町にはいなかったけれど、首都にでも行けば会えるかもしれない。」
嬉しそうに顔を綻ばせたサラを見てキーシャも純粋にシェーンの生存を喜んだけれど、サラの真白な首筋がまだ微妙に濡れた状態で目の前にちらついていたので、気が気ではなかった。
ふと、普段に比べサラの元気があまりないことにキーシャは気がついた。おでこに手をおいてみると熱もないし、水浴みをしていたところを見れば体調不良ではないはずだ。
だとしたらエミリアが水浴みを許すはずがないからである。
「どうかした?」とキーシャは気分が沈んでいる理由を聞こうとしたけれどサラは「なんでもないのよ。」と言葉を濁す。
それから、あなたはずっと歩いたのだからすこし休んだほうがいい、とキーシャを寝室に押し込んでしまった。
夜がすっかりふけて、夜空を見上げながらサラは一人小屋の前に座り込んでいた。ちょっと外の空気を吸おうと小屋から出たら星があまりに綺麗だったので、つい居ついてしまったのである。
ここが山脈の高所にあるせいか、星は自分の国の王城から見るよりもずっと近くに感じたし、ずっとたくさんあるようにサラには思える。
いっそ降ってくるのではないかと思える程に、星々は圧倒的な存在感で頭上に瞬いていた。サラはそれをなにも考えずに、ただぼーっと見やっていた。
「サラ。」
唐突に声をかけられたので顔をあげると、キーシャがそこに立っていた。星の薄明かりと小屋から漏れる灯りのわずかな光だけでも、
彼女が微笑んでいるのだと分かるくらいキーシャのまとう空気は柔らかだった。
キーシャは静かにサラの隣に腰を下ろすと、サラと同様に星を見上げた。
しばらく沈黙の中にあった二人だが、キーシャが唐突に口を開いた。
「エミリアから聞いたよ。私と、エミリアと、タンギの事を聞いたのでしょう。」
ごくごく穏やかな声だったが、タンギ、と発音するときのその声は少しだけ震えていた様にサラには感じられた。
別に私の過去を聞いたからってサラが落ち込む必要はないのに、とキーシャはつぶやく。
「でも、なんだか勝手にあなたの過去にふれてしまったみたいで申し訳なかったの。前にも無遠慮にあなたのお師匠様の事を聞いたことがあったし。」
「私自身、自分の過去について語るのはあんまり好きじゃない。でも、サラにそれを知られたって別に全然いやじゃないよ。」
いやじゃない、キーシャは何かを確かめるようにもう一度繰り返す。
「不思議な感じはするけれど。多分エミリア以外にタンギの事を知ってるやつなんていない。タンギの友人は知っているかもしれないけれど、私は彼らとは連絡をとっていないから。
でも、むしろ私やエミリア以外の誰かが私たちの事を知っているということに、救われるような気すらしてるんだ。
エミリアに、サラに全部話したって聞いて、信じられないけれど胸がスッとした。エミリアとも優しく笑いあうことができた。」
「それは。」
それは、知った相手が私だから?
サラはそう言いかけたものの、結局はその言葉を飲み込んだ。言うべきではない気がしたし、その答えを聞くのが怖かったせいもある。
そっとサラはキーシャの横顔を盗み見た。すっきりとした顔をしてはいたが、やっぱりまだどこかその表情はさみしげだった。
キーシャの中の孤独はひどく根深いものなのだろう。きっとそれは一朝一夕で取り除けるものではなくて、多分彼女は、それと一人で一生付き合う覚悟を静かに決めているに違いあるまい。
そこまで考えて、サラは途端に悲しくなった。しかしかけるべき言葉はいっこうに見つからず、声は喉の奥で行き場を失っていたため、静かにキーシャの右手に自分の左手を重ねた。
「お師匠はどんな人だったの?」
またしばらく二人の間には沈黙が落ちたが、今度はサラが唐突に口を開く。今それを聞くべきだろうと思ったし、今聞かなければ一生その契機を失いそうだったから、
サラはその質問をようやく口に出した。
「そうだな・・・。」
キーシャは眉尻を下げる。
「厳しい人だったなあ。私は親というものを知らないけれど、とりあえず親のようなものではなかったな。私を育ててくれた人に違いはないけれど。
私に、生き抜くために強くなれといつも言い聞かせている人だった。師匠の事は大好きだったと思う。
でも同時に「いつか自分の槍で見返してやる!」って思っていたし、憎らしいような、憧憬と尊敬の対象にあるような、そんな存在だったな。
とても強い人で、この人はきっと戦いの最中で死んで行くのだろうと信じてた。でも、あのおっさん、あっさり病気で逝くんだもの。当時は悲しむより先に拍子抜けしたね。」
くすくすとキーシャは笑う。
「それでも私にとっては唯一身内のような人間だったから、当時はそれなりに絶望したんだよ。ちょっとガキ臭かったな、って今では思う。」
私には愛情ってものがよく分からないんだろうな、キーシャはそれから神妙な顔になって、小さくつぶやいた。
「サラには人生の中での最初の記憶ってあるかな?私は子供のころの記憶がないんだ。だから両親の記憶もないのだけれど、幼いころのおぼろげな最初の記憶ってのが、一人で泣いてるところ。
そこに師匠が現れたんだけど、子供だから甘えたいじゃない?てっきりこの大きな男の人は自分を抱きしめて、慰めてくれると何故だか信じ切っていたわけ。
でも予想は裏切られて、泣いてる私の頬を師匠は思い切りはたいて、私を怒鳴りつけたんだ。生きたいなら強くなれ、泣くな、武器を持て!ってね。
それから子供にはどう考えても重すぎる槍を押し付けられて、森の中に投げ込まれて、とりあえず一人で一週間生き延びてみろ、ときたもんだ。
師匠の事を恨んで恨んで恨みまくって、ここから出て何が何でもあの男を殺してやるんだ、って必死に生き延びた。
で、やっと森から出られたら「それぽっち生きのびたくらいでいい気になるな!」ってまた怒鳴られる。
師匠にむかついてても、生き延びたらほめてくれるんじゃないかとどこかで期待してた私は号泣したね。やっぱり師匠の言うとおり甘っちょろかったんだな。
それから何度も怒鳴られながら、いつかこいつを殺してやりたい、いつかこいつに認められたい、いつかこいつを超えたい、って思いながら必死に修行してたら
自分でもびっくりするくらい強くなってた。」
キーシャはちょっと自嘲気味に笑いながら、一息に説明する。ちょっと息を吐いてから、さらに続ける。
「今は師匠にすごく感謝してるけれど、最後まで師匠に愛されているのかは分からなかった。あっさり病気で逝くなんて情けなさすぎるよ。
どうせなら私の槍で逝ってほしかったな、って当時の私は相当やさぐれてたね。
それに最初の記憶というのが師匠に思い切りはたかれた記憶だったから、その時師匠は何を考えていたのか、いつか聞いてみたかった。
でも、それもかなわないんだなって思ったら初めて師匠が死んで悲しいって思ったよ。」
こんな風に師匠の話を誰かにしたのは初めてだ、とちょっと照れくさそうにキーシャはサラを見た。こんな事話して私に幻滅しない?そんな風にちょっと伺い見るような、少し弱弱しい瞳だった。
サラは、何も言わずに立ち上がって、キーシャの背をそっと抱きしめた。
そうすべきだと、自然に思ったからだ。
二人は何も言わないでしばらくそのままでいたが、サラがそっと腕を緩めるとキーシャが思いだしたように言う。
「そういえば最初の記憶の話をタンギと話した事があったなあ。あれは確か、ヤツに無理やり酒に付き合わされた時だ。
私が、最初の記憶は大の大人に思い切りはたかれているところだ、って無愛想に言ったら、あいつは蜂蜜酒をぐいと呷って、かかと笑ったんだよ。
そんで、「俺とお前は同志だ。俺の最初の記憶も、本当の姉貴と喧嘩をして俺が号泣している所だ。お互い最初の記憶が泣いているところだなんて奇遇じゃねえか。」ってさ。
なんか他人に笑われるとひどく馬鹿馬鹿しくなってきて、それからタンギと急激に仲良くなったんだ。今思えば随分とあの言葉に救われた。
私はエミリアやタンギがいなければどうなっていたんだろうな。」
これはサラに語りかけるというよりも、ほとんど独白だった。忘れていた事をふいに思い出して、つい口に出さずにはおれなかった、というような。
それからキーシャは、ぽつりとつぶやく。
「そうか、師匠もタンギも、もういないのか。」
それは、サラを途方もなく切なくさせるほどの、悔しさと諦めを同時にはらんでいた。
「サラ、ありがとう。師匠やタンギの話をこんな風に誰かと話せる日がくるとは思わなかった。」
キーシャは立ち上がりながらそう言う。それからサラの手をとって、ついてきて、とサラの手を引き歩きだす。
キーシャがあるくとタプン、と音がしたので、彼女の左手に目をやれば、彼女は何故だか酒瓶を手にしていた。
キーシャとサラがやってきたのは、いつかキーシャがとても穏やかな顔で昼寝をしていた背の低い木の根元だった。相変わらず白詰め草が辺り一面を覆っている。
「ここの根元に、タンギが眠ってる。」
ひとり言のようにも、あるいは誰かに語りかけているかにも聞こえる声色でそう言うと、キーシャは酒瓶のコルクを抜く。
「蜂蜜酒はタンギの大の好物だったんだ。町でとびきりのやつを買ってきた。思いっきり飲めばいいさ。」
キーシャはそういうと、手にした蜂蜜酒をその木の根元にゆっくりと注いだ。
サラはそれを黙って見ていた。酒瓶の中の蜂蜜酒が、月明かりに反射して琥珀色にきらめくのがなんとも美しかった。
サラが空を見上げると、星と一緒に、頼りない、ごくごく薄い三日月が頭上にひっかかっていた。
辺りは風が静かに囁く音と、酒瓶がとくとくと音を立てる以外の物音は何もしなかった。
「タンギを、愛していたの?」
唐突にそう聞いたサラに、キーシャはしばらく考え込んでから、首をかしげた。
「家族として愛していた。男としてはどうだったかわからない。私とあいつには血よりも強いつながりがあった。
私はタンギを愛していたし、尊敬していたし、憧れていたし、実のところ嫉妬していた。タンギは素直で、実直で、皆に信頼されていたね。そしてあいつは何の疑いもなく皆を信頼していた。
それが一番羨ましかったな。私は人を信用するという事が下手だから。」
それを聞いたサラは思わずつぶやいてしまう。
「妬いちゃうな。」
「そう?」
多分キーシャは、サラがそんな友人を持てたキーシャに嫉妬したのだと受け取ったのだろうけれど、それは違う。
サラが嫉妬した相手と言うのは、キーシャにここまで言わせることのできるタンギという男に対してであった。
キーシャは蜂蜜酒の大方を木の根元に注いでしまうと、愛おしそうに木の幹を撫でた。それからわずかに残った蜂蜜酒を呷ると「ありがとう。」とつぶやいた。
それはサラに対してのものだったのか、タンギに対してのものだったのかはわからない。キーシャの瞳は相変わらずさみしそうだったが、サラは何も言えなかった。
二人の頭上では数えきれないほどたくさんの星と、ほっそりとか細い月が静かに瞬いていた。