第十九話


キーシャは、自分の背の二倍はあろうかという背の高い塀を見上げて嘆息した。
ファウスト伯という人物はどうやら、噂どおり相当に用心深い性格の様である。
彼のご自慢の屋敷は、高級の館が立ち並ぶ表通りの中でも最も中心の、格別に金を持った連中の家々が集まるただ中にあり、一番の広さと、豪奢さと、そして堅牢さを誇示して建っている。
キーシャはどこかしらこの屋敷につけいる隙はないであろうかと、数日後に控えた屋敷侵入の計画に向けて下見に訪れたのであった。
なるべく安全な経路を探したい。キーシャはそう思う。なにせ、サラを連れて侵入するのだ。キーシャ一人ならば警備兵をなぎ倒しながらでも進めるけれども、そういうわけにもいかない。
そんなわけで正門はあきらめたのだ。そちらは無愛想な面を貼り付けた警備兵が過剰なほど配備されていて、彼らを倒して入るには、無理とは言わないまでもかなりの手間が必要なはずだった。

屋敷をぐるりと一周してキーシャはまた一つため息をはく。背の高い塀は一つもかけ損じることなく延々とキーシャの前に立ちふさがり続けた。
これほど丁寧な警備が敷かれているのは、よっぽどの神経質で警戒心の強い性格なのだろう。
正門のあたりまで戻ってきたキーシャが、ふと表の道沿いの脇のほうに目をやると、見慣れた顔がある。こんな場所にいるのが珍しかったせいか、キーシャは反射的に声をかけた。

「やあ、トム。こんな所でどうしたの?」
「ああ、キーシャ。奇遇だね。」

トムはいつもの穏やかな顔で微笑んだ。それから、脇の男に「すまんな。」と声をかける。建物の影になって見えなかったのだがどうやら連れがいたらしい。
男はトムよりか幾分か若くて、ずいぶんと長身である。平均よりも少し背の低いトムの話がよく聞こえるように、背を折り曲げていた。
男は何もいわないでトムに一つ頭を下げてさっと立ち去ってしまう。キーシャは申し訳なさそうに鼻の頭をひっかいた。

「もしかして、大事な話を邪魔してしまったかな、すまない。」
「いいや、問題ないさ。話はちょうど終わったところだったんだ。」
「こんな高級地に知り合いがいるなんて、さすがトムだ。顔が広いんだね。」
「顔が広いだけが自慢と娘にはさんざんなじられているんだがなあ。稼業の方はさっぱりだ。なに、私だってつい二十数年前に始めた宿なのだがね。」
「そうなのか、もっと古い宿なのかと思っていたんだけれど。」
「古い家屋を、死んだ家内と改装したんだ。それより、キーシャのほうこそいったいどうしたんだね?…ああ、なるほど。」

一度疑問を投げかけてから、ファウスト伯の屋敷を振り仰いだトムは、得心したかのように一つうなずく。

「なるほど、侵入のための下見というわけか。」
「トムはその話を知っているんだね。」
「ああ、カンナから聞いたんだ。安心しなさい、誰かに言ったりはしない。」
「そんな心配はしていないけれど。やっぱりトムは、カンナの正体を?」

キーシャの問いに、トムは明るい笑い声を立てる。トムは気優しい男だが、彼の笑いは人の心を温める。キーシャはそう思う。屋敷の下見にうんざりしたキーシャは、トムと共に宿に向かって歩き始めた。

「もちろんさ。知らなければ、宿の用心棒を頼んだりはしない。ああ見えてカンナは律儀な女でね。自身が留守の時は盗賊団の部下に宿を見張るように言いつけてくれたりしたんだ。
おかげでただでさえ宿の周りは治安が良くないと言われとるのに、さらに柄の悪い連中をうろつかせる事になっちまったが。まあ、スミレが無事なら良いことだ。
なに、盗賊団の正体をしっとる奴は裏町じゃ珍しくない。」

宿の売り上げに対してはさして頓着のないらしいトムは、気楽な笑顔を見せたままである。

「スミレは盗賊団の正体を知らなかったみたいだけど。」
「はっはっは。あいつは鈍いからな。」

大きな笑い声を立てたトムだったが、ふと思い出したかのように笑いを引っ込めると、少し低めの声でキーシャに語りかける。

「盗賊団の問題やら、裏町の問題やら、些細な問題だ。でも、ファウスト伯には気をつけたほうがいい。」
「それって?」
「君たちの計画を反対する気はない。裏町のやつらももう限界まできていることだし、いずれ不満は何らかの形で表に現れるだろう。だから反対をしようとは思わない。
でも、ファウスト伯はそれなりの傑物だということは覚えておいたほうがいいかもしれんね。」
「ファウスト伯はとんだ老いぼれだと聞いている。トムの見方はちょっと違うんだ。」
「そう言う奴は多いな。確かに彼は賢い統治者ではない、しかし狡猾な為政者ではある。それなりの気力と、頭の良さを持っている。」
「そんなものなの?。」

政治に疎いキーシャにはいまひとつピンとこない。でも、サラが彼をののしる言葉を聞いても、裏町の人間がうわさをするのを聞いても、彼が頭の良い政治家であるとは思えなかった。

「私欲のために政治をふるって、自分に良い顔をする貴族ばかりを優遇する。私には決して頭の良い人間とは思えないんだけれど。」
「キーシャ、彼はもう七十になるんだ。ただの愚者が、政治家としてここまで生き残れるものか。」

それに、とトムは付け加える。

「彼が裏町の人間を冷遇し貴族ばかりを大切にするのには、ただ自分の取り巻きを大切にしたいという理由ばかりじゃあない。」

トムは人差し指を一本立てて、それをくるりと一回転させた。彼の声は、いたって冷静なものだった。

「彼は、ブラッド王国の人間が嫌いなんだ。」
「ブラッド王国?」

キーシャは記憶の中をさぐる。クルーザン共和国ができる前、まだこの地が三国に分立していた時代。三つのうちの一つの国がブラッド王国だったはずだ。もう滅ぼされた国である。

「三国が一つの国になった時、つまるところクルーザン王国に、ブラッド王国とドンバ王国が滅ぼされた時、首都にはもともと三国に別れていた人間が集まることになった。
国が国に打ち勝ったのに、何の区分もつけないわけにいかなかった当時の国王は、クルーザンの国民を優遇した。
だから現在の貴族の多くがもともとクルーザン王国の人間だし、裏町の人間の多くはもともとブラッド王国の人間、ということになっている。
ドンバの人間は、商人の独自の嗅覚で大陸のあちこちに散ってしまって、今この街に残っているのは微々たる数だけれど。この街の二極化の根本は、もともとの生まれの違いなんだな。」
「なるほど。でも、ファウスト伯がブラッドをうらむ意味なんてあるのかな?逆ならわかるんだけれど。つまり、ブラッド王国はクルーザン王国に滅ぼされたわけだろう。」
「齢七十の人生にはいろいろあるんだろうさ。おまけに政治家だ。数え切れない数の恨みを売ったり買ったりしているのだろう。」

柄にもなく政治の話などしてしまった、とトムは少し薄くなりかけた後頭部に手のひらをあてて陽気に笑ってみせる。
一瞬トムの顔に、彼の歳に相応しい老齢な表情がかすめたけれども、彼はそれをすぐに笑いの下に隠してしまった。

二人ともずいぶん話しこんでいたせいだろう。気づけば、宿屋にたどりついてしまった。トムは買出しにいくといってそのまま道の反対側にいってしまう。

トムに言われた言葉を反芻しながら宿の自在扉を開けると、室内の薄暗がりの中でスミレが一人立っていた。
照明もつけないで何をやっているのかと訝ったキーシャが声をかけようと口を開くと、スミレがきっと顔を上げた。
頬が薄っすらと紅潮していたが、目は何かを決意したかのような、強く鋭い光が宿っている。

「キーシャ、ちょっといいかしら。」


























サラはその細い腕にはいくらか重過ぎる買い物籠をさげて、裏町を歩いているところだった。籠の中身はずっしりとした鶏肉と豚肉だ。
スミレに鶏肉を買ってきてほしいと頼まれたから買いに行って、今はその帰りだった。サラが肉屋に赴くのにはちょっとしたわけがある。
肉屋の主人はサラの事をとても気に入っているから、サラが買い物に行けばふんだんなサービスをふるまってくれるのだ。
今回も購入した鶏肉をいくらか上乗せしてくれたばかりでなく、豚肉までおまけしてくれた。おかみさんは口では皮肉を言ったが、顔は笑っていた。
おかみさんもサラの事を主人と同じように気に入っているのだ。

サラは買い物が嫌いではない。もとよりノエにいた時分から、彼女は市井に出て民と交流するのが大好きだった。
その時はあくまで王女という立場を捨てられなかったけれども、今は一般の民衆と同じ目線で買い物をすることができる。
それは新鮮な発見を多分に持つという意味合いだけではなくて、ささやかでありふれた幸福の素晴らしさをサラに教えてくれた。同じ目線で会話をすることは、とても心地よいことだった。
重い荷物を抱え、道中いくらか声をかけられ、それらに笑顔で応えながら、ようやくサラは宿屋に帰ってくる。
サラが戻り次第夕食の準備にとりかかると言っていたから、スミレが待っているはずだ。今日は二人で料理をする約束をしているのだ。
自分の作った料理をキーシャが頬張る姿を想像して、サラは頬を緩ませた。

一階の食堂に入ったが、予想に反して中は薄暗く、誰もいない。
不思議に思っているとすすり泣く声がした。いつもトムがグラスを磨くカウンターの下からである。
サラがそっとカウンターの下を覗き込むと、スミレが丸まって座り込んでいた。
スミレの顔は目からあふれ出した液体でびっしょりと濡れていて、泣きすぎたせいだろうか、目が真っ赤に腫上がっていた。
驚いたサラは、とっさにスミレの腕を掴んだ。
それからなんとか彼女をひきたたせて食堂の一番端のテーブルに座るように、半ば抱え込むように誘導した。その間にすすり泣きは嗚咽に変わる。

スミレの向かいの席に座ったサラは彼女の手を握って、スミレがなんとか落ち着くのをまった。サラの手の体温に安心したのか、やがて嗚咽も収まってゆく。

「ねえ、スミレ。何があったのか話してくれるわね?可愛い顔が台無しだわ。」

ぐすぐすと鼻を鳴らしたスミレは、どうにかこうにか言葉をしぼりだす。



「……わ…わたし、わたし、キーシャに告白したの。」

こくり、とサラが息をのんだ。告白?それは、どういうことだろうか。

「それって…。」
「好きだって、私のことちゃんと見てほしいって、彼女に言ったの。」
「……そう…。」

スミレが言うところの「好き」の意味をサラは正確に理解しているつもりだった。
それで、どうだったの?と聞く必要はなかった。スミレの泣き顔が、その結末を必要以上に語ってくれている。

「キーシャはすごく、すごく、…困った顔をしていた。それで、それで、…。」

その後はさらなる嗚咽のせいでほとんど聞こえなかった。何とか聞き取ったところを総合してみれば、キーシャはこう言ってみせたらしい。
『私もスミレの事は大好きだよ。でも、その好きの意味はスミレが求めるものとは違うんだろうな。』
困ったような顔はさらに深まって、目の前で泣き出してしまったスミレの頭に、その大きな手のひらを置いた。

「キ、キーシャは、最初っから最後まで優しかった。…それが、悔しかった。悔しいけど嬉しかったの。そんな自分がまたく、悔しかった…。」

サラには、スミレの気持ちが痛いほどよくわかる。多分、やんわりと拒絶された相手からそんな風に優しくされたらサラだって悔しいだろう。
悔しくて、でも嬉しくて、まだ好きで、どうしたら良いかわからなくなるはずだ。
そばかすの散ったスミレの頬を滑り落ちる涙を見ているうち、サラの涙腺までがじわりじわりと熱くなってくる。
そしてついには、サラの大きな目から、それにぴったりの大粒の涙がぽろりとこぼれた。

「な、なんで、サラ、まで泣くのよ…。」

ひっくひっくと嗚咽しながら、スミレは驚いたようにいう。

「わ、わかんない。勝手に涙が…。」

そういううちに、サラの目からは涙がとめどなくあふれ始め、際限がないように思われた。

「き、きっとキーシャのせいだわ…。」
「そうね、そうよ、キ、キーシャのせいだもの。」

とりあえずのところ全てをキーシャのせいにして、二人は思い切り涙を流し始める。
ついには、「うわああん。」「うわああん。」と二人声をあわせて泣いた。
サラもスミレも自らの涙をぬぐうのに必死だったが、ひとしきり泣いて、目の底に溜まっていた涙はあらかた出し切ってしまったかのように感じ始めたとき、二人はふとお互いの顔を見やった。
泣き顔はお互いに、ひどい有様だった。サラは白磁のような美しい顔が涙でぐしゃぐしゃだったし、スミレは鳴きすぎて瞼と鼻の頭、それから頬のところが真っ赤に染まっていた。

「………ぷ。」
「……くすくす。」

今度はお互いの顔が可笑しくなってきて、二人はほとんど同時に噴出した。
それから、今度はお腹を抱えて二人で笑った。泣いたり、笑ったり。忙しいものだ。

ひとしきり笑い終えると、スミレが、今度は笑いすぎたせいでだめ押しのように目から零れ落ちた涙を人差し指でぬぐって、サラに問いかけた。

「サラ、あなたもキーシャが好きなんでしょう。」

その言葉は、それをほとんど確信しているかのような口調だった。

それは違う、という言葉はサラの喉の奥のところで立ち消えてしまう。
否定することなどできようはずもなかった。
サラがその事に気がついたのは先日のダンスパーティーのことである。
いつもよりうんと高揚する気持ちは、きっと久しぶりに華やかな場所にいったせいだろうと思っていたのに。
でも、彼女に手をひかれて場内から逃げ出した時に、あの静まり返った夜の庭で、街灯に照らされた凛々しい彼女の姿を見た時に、
そして、彼女がサラの手の甲にその唇を落とした時に、気が付いてしまったのだ。
彼女に寄せる信頼とか、好意とは別物として、キーシャのことが好きなのだということを。
それを自分の中で認めてしまったサラは、もうまっすぐにキーシャを見つめることなどできなかった。
火にあてられたようにカッと熱くなった手の甲を抱え込むように後ろを向いたサラは、高鳴る動機をなんとか押さえるのに必死だった。
もし、その後カンナの率いる盗賊団が現れなければ、キーシャにその動揺した仕草を見せてしまっていたかもしれない。
サラは自分の思いをキーシャに告げるつもりはなかったが、スミレの話を聞いて少し羨ましく思ったのも事実だ。
もし自分が王女でなかったら、それに、女同士でなかったら…。それでいくとスミレだって女だけれども、彼女は宿屋の娘である。
スミレが少しだけ羨ましかった。


スミレは「やっぱりそうなんでしょう。」と言わんばかりにニッコリ笑うと、立ち上がって窓の方へ歩いていく。薄暗いのはカーテンを閉め切っていたせいだ。
カーテンをあけると、スミレは窓を開け放った。心地よい風が、湿っぽかった部屋の空気を新しくしてゆく。

「別にサラを出し抜くつもりじゃなかったのよ。」

サラは頷く。それは分かっていた。宿屋の娘であるスミレは別れというものに敏感だ。やって来ては、すぐに去ってゆく旅人の相手をしているのだ。
その分タイミングの大切さは身にしみているはずだし、別れの近いのを感じ取っているのかもしれない。

「でもね、今なんとなくわかったわ…。もしかしたら、私振られるって分かっていたから告白できたのかもしれない。
だって、キーシャってサラの隣にいるのが……なんていうか一番しっくりくるもの。」
「そうかしら、そんな事はないと思うけれど。」
「ううん。最初から二人には、特別な空気が流れていたもの。結束というかね。だからサラ、あなたはきっと大丈夫よ。」

窓の外を見やっていたスミレは、くるりとサラの方を振り向いた。

「でも、こんな良い女をふるなんて、キーシャったらばかね。」

振り向いたとびきり魅力的な女の子のその笑顔には、また一筋の涙が流れていた。


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