第二十五話


焚き火がぱちぱちと爆ぜる音がする。
キーシャは懐かしい心持ちがした。大陸を戦いながら渡り歩いていたキーシャにとって野宿と夜のたき火は日常のものだった。

クルーザン共和国を出て、ノエ公国を通り、今日ようやくタッツリア帝国内に入ったばかりだ。何日も馬を走らせ続け、何頭も馬を乗りつぶした。
これほどの短期間でタッツリア帝国内に入ることが出来たのは、ほとんど奇跡に近かった。旅と戦いになれた人間だけで構成された旅団だったせいもある。

愛用の槍を抱え込んでいるキーシャは声をかけられた。顔をあげると、アーサーが立っている。初対面のアーサーは頭の固い真面目な男に見えたけれど、喋ってみれば、律儀で気のよい男だった。

「キース様。」
「アーサー。その呼び方やめてくれないか。」
「いや…すみません。」

一国の軍部の総大将とは思えないほどアーサーの腰は低かった。
アーサーはキーシャの隣に座り込む。

「あなたの戦いを見るのが楽しみだ。赤猫の噂は聞いています。」
「それは光栄だね。」
「……あなたが国王の娘だったのですね。」

アーサーは遠い目をした。

「私はブラッド王国を愛していました。私は国王に憧れて、国の軍隊に入った。
だからトムさんからあなたの話を聞いた時、ブラッド王国の、あの誇り高き国の残り香を再び嗅いだ気がして、興奮したのです。
ブラッドが復活することをひと時ではありましたが夢に見ました。でもあなたに会って、とても反省しました。」

彼は苦笑する。律儀な男の顔には、無精ひげと共に旅の疲れが少しだけ見てとれた。

「あなたは今を生きていた。過去にすがっていたのは我々だけだった。私は、クルーザン共和国王国軍の大将としての地位を軽んじていた。
もはや、ブラッドは滅びた国だった。私は初めて、私の故郷に別れを告げられた気がするのです。あなたに感謝をしている。」

落ち込んだ顔から一転、アーサーは明るい顔をして見せる。

「私はトムさんから頼まれてここにいる。サラ王女とも面識はありません。だから彼女がどんな人間であるかも知らない。
でも、あなたにとって彼女はとても大切な人なんですね。あなたを見ていればわかる。
それだけで、私には戦う意味がある。私はブラッド国王にとてもお世話になりました。あなたは関係ないと言うかもしれないけれど、ブラッド王国との別れのために、最後に恩返しをさせてください。」

これが言いたかった、そう照れくさそうに付け足してアーサーは立ち上がった。キーシャよりもずっと年上の青年は、どこか少年のようなひたむきさを持っていた。



翌朝、森で調達した食材で作る朝食もほどほどに、一行はタッツリアの首都に向けて旅立った。
サラが本当に首都にいるのか一分の疑いはあったものの、サラほどの身分の人間ならば、皇帝のそば近く、つまり皇帝の居城の中かその近くに閉じ込められているのではないか、
というのが全員の共通の見解であった。

キーシャが馬を走らせていると、馬の轡を並べてきたのはカンナだった。
キーシャが、カンナにぽつりと打ち明ける。

「昨日、アーサーと話したんだけどね。」
「うん。」
「彼に言われたんだ。サラ王女はあなたにとって大切な人なんですね、ってさ。」
「うん。」

それぎり黙り込んでしまったキーシャを一瞥すると、カンナはけらけらと無邪気な笑い声を立てた。からかうような口調で言う。

「今更何を言っているわけ。君たちが相思相愛であることは、正直君たち以外の皆が気づいていたよ。」
「……そんなこと、ないでしょ。」
「あるよ。君たち他人には入り込めない空気を漂わせていたもの。」

カンナはそう断言する。そうなのだろうか、とキーシャは考えた。
難しく考える事はない、そうカンナは説明する。
「頭は単純なくせに、サラのこととなると難しく考え込むんだから。私みたいにもっと本能的に生きれば。
一緒にいたい、触れたい、だれにも渡したくない、ずっと守ってあげたい、そういう思いがあるなら、それは好きってことだよ。もっと単純に考えなよ。
私なんて、始終女の子に触れたいと考えているんだからねえ。」

最後は冗談交じりに言う。キーシャは、自分の傍からサラがいなくなってしまった時の喪失感を思い出した。それからあの、真白な肌に手を触れたいと、純粋にそう思った。

それから、はたと気付いたのだ。生涯、こんなにも急いた気持ちで馬を駆るのは初めてだという事に。誰かのために戦うのは、初めてだという事に。戦う前に手が震えるのは、初めてだという事に。

「手が震えるんだ。」
「武者震いというやつじゃないの。」
「…いや、違う。多分、怖いんだ。」

キーシャは正直に打ち明けた。いつも、自分のためだけに槍を振るってきた。死ぬのも、生きるのも、全ては自分の腕次第だったし、責任も何もなく、キーシャはいつだって身軽だったのだ。
でも、今回は違う。初めて誰かのために槍を振るう。絶対に失いたくないから絶対に負けられない。それが怖かった。
キーシャはタンギの事を思い出した。タンギはいつも誰かのために戦っていたし、誰かのために戦って、結果的に命を失ってしまった。
キーシャはタンギを裏切った男をひどく恨んだが、今になってみれば分かる。きっとタンギは、裏切った彼を責めてなどいなかったろう。キーシャはもうこの世にはいない彼に、心の中で語りかけた。



タンギ、誰かのために戦う事は、こんなにも恐ろしくて、苦しくて、そして幸福なことなんだね。あんたは、こんな気持ちでいつも戦っていたのか。
こんな重圧に耐え抜いて、剣を振るっていたのか。あらためてあんたを尊敬する気持ちだよ。
人のために戦うあんたが羨ましかった。やっと、追いつける。



キーシャはふるえるこぶしをぐっと握りしめる。

「カンナ、あんたは何故吟遊詩人になったんだ。」

旅慣れたカンナは、馬の乗り方も勇ましいというより優雅だった。「なに、突然。」と自分の事を語りたがらない吟遊詩人は、驚いたような顔をする。

「吟遊詩人になったわけねえ。なるべくしてなったというか、こう、流れ。」
「てきとうさは昔からだったんだな。」
「はっはっは。まあね。もともと、旅したかったんだ。いろんな場所に行きたかった。人探しをしていたからさ。」
「人探し?」
「蜂蜜色の月を覚えてる?」

キーシャはカンナの背負ったリュートをちらと見た。無論覚えている。初めて会った時、キーシャが自分の素性を知って落ち込んでくれた時、カンナが歌ってくれた唄だ。

「あれはさあ、私が作った曲なんだよ。」
「そうなのか。」
「そう、ずーっと昔、行き別れた弟のために作った曲だ。」

カンナには珍しく、少し感傷に浸った瞳を見せた。

「最後に見たのは弟の泣き顔だった。強いやつだったから私がいなくても力強く生きているとは思うけど、どうしてもあの子の笑顔がもう一度見たくて旅を続けてる。」

キーシャの脳裏に、唐突に彼の声が蘇った。今しがた聞いたみたいにそれはリアリティを持ってキーシャの耳に再生された。

『俺とお前は同志だ。俺の最初の記憶も、本当の姉貴と喧嘩をして俺が号泣している所だ。お互い最初の記憶が泣いているところだなんて奇遇じゃねえか。』

カンナの鮮やかな桃色の髪を見て、そういえばあいつはくすんだ桃色の髪をしていたな、と思いだす。
キーシャの予想が当たっていれば、彼女の隣で彼の事を思い出してしまったのは、むしろ自然のことだったのかもしれない。

キーシャはカンナにその事を告げようと思ったが、すんでのところでやめてしまった。なんとなく、今はその時期でない気がした。この戦いが終わったらカンナに教えてやろう。
パブオン山脈の小高い丘の上、背の低い木の根元に眠る彼の事を。
悲しむかもしれないけれど、きっとカンナなら受け入れられる。

ますます勝たねばならない。そう心に刻んで、キーシャは行く末をきっ、と見据えた。


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