第六話


森の中に建てられているというのでキーシャはこぢんまりとした館を想像していたのだが、霧雨がけぶる中で一行が発見したイキストエフ伯の館は華麗でいて豪奢であった。
白い石造りの城のような外観をしたその館の主は、温かい笑みをした齢70にもなろうかという老人であった。イキストエフ伯は美しい王女を見て頬を紅潮させながら、
雨に濡れそぼった一同を十分な礼節をもってもてなした。
傭兵として畏怖の目で見られることは少なくないけれど、こうして歓迎されるというのはキーシャにとって初めての経験で、なかなか新鮮な体験だ、と彼女は思う。
キーシャにも適度に広く清潔な一室が与えられた。送り届けたからキーシャの任務が終わりというわけではない。彼女は事態が収束するまでサラを守らなければならないのである。

軽く湯浴みをしてから夕食に招かれたが、さすがに王女と食膳を共にすることはできなかった。
キーシャはふと、この一週間の事を思い出す。
特殊な状況下での危機感を十分に感じ取っていたサラは生活するための仕事を自ら進んでやろうとした。
初め兵士たちは王女に働かせることを好まなかったし、恐縮もしていたけれど、サラ自身が強く手伝うことを主張したから、結局簡単な仕事をサラは自らの手でやるようになった。
結果的に、旅が一週間たつころにはサラの食用のキノコを見分ける知識は素晴らしいものになっていた。
皆で食糧をとり、食膳をともにする。それが当たり前になりつつあったのだけれど、実のところそれは至極特殊なことだったのだとキーシャはあらためて思い知った。

久しぶりに量的にも栄養価的にもたっぷりとした食事をとった後、清潔なベッドにキーシャは身を横たえる。
これほど清潔でしっかりとしたベッドで寝るのは、久しぶりどころか初めての経験だった。
にもかかわらず、ここ一週間始終サラに憎まれ口を叩かれ、また叩き返していたキーシャであったから、しとしとと霧雨が立てる雨音以外は物音一つしない夜は少しだけ物足りなく感じる。
しかしながら後々は静かな夜のほうがよほどましだった、と思うようになるのだけれど。





宵もたっぷりと深まって腹心地も満たされ、清潔な衣服とシーツに包まれているにも関わらずキーシャはなかなか寝付くことが出来ない。
何か野生の勘のような、とても本能的で原始的な囁きがキーシャを「寝るべきではない。」とせっつくのだ。この館につくまえの警戒の鐘の音は、まだ鳴りやんではいなかった。
急に、キーシャは獣のような素早さと獰猛さで身を起こすと、素早く槍をつかんで、今度は猫のような忍び足でドアところまでやってくると、ドアのすぐ隣の壁に背をぴったりくっつけた。
館の中で、いや、キーシャの部屋の前で急激に濃厚な殺気がたちこめたからである。
案の定、それから一拍と置かずにダン、と扉が開かれた。「侵入者」はもぬけの殻になったベッドを見て、少なからず動揺したようだ。
息をのんでからすぐ、「赤猫が抜け出したぞ!!!」と叫んだ。するとそれまでしんとしていた館が、一気にざわっと呼吸をしだしたようであった。
急に館の中が騒然とした空気に包まれ、どたばたという足音がそこかしこから聞こえてくる。
男たちはキーシャがもう部屋の中にいないものと思い込んでしまったのだろう、彼女を探しに廊下を走っていた。

一方キーシャは、張り詰めていた息をちょっと緩めて、「どうしたものか。」と思案を巡らす。状況から見れば、イキストエフ伯の裏切りで間違えはなさそうである。
でなければ侵入者が誰にも気付かれずキーシャの部屋まで来ることは不可能だし、そもそもキーシャの部屋を知っているのだっておかしい。
とりあえず、サラである。館に入って以来サラの姿は見ていないから、今どこの部屋にいるかもわからなかった。シェーンは彼女のそばについているだろうか。
もしそばにいたとしたら彼女がなんとかしてくれるかもしれないけれど、イキストエフ伯の指示で別々の場所にいると考える方が自然だろう。
ち、とキーシャは舌打ちした。ようやく目的の地についたかと思えば、また一波乱か。
その時ちょうど真上の辺りから女性の悲鳴が聞こえてきた。
間違いなく、サラの声である。





キーシャは「赤猫」の名のままに、猫のような俊敏さで上の階まで駆け上った。館の中はなかなか複雑な造りだったけれど、
パッと見ただけで戦場の地形を把握するのを得意としていたキーシャにとって地理的把握は造作もないことだった。
途中で何人かイキストエフ伯の部下であろう兵士達に出会ったがこれも造作なく薙ぎ払った。キーシャはふと、一週間旅をともにした兵士たちは無事であろうかと思いをめぐらした。

サラは、彼女にふさわしいかなり豪奢な部屋の中で、数人の男たちによって縄でしばられようとしているところだった。
そこにキーシャは踊りこんでいくと、槍の一閃であっと言う間に男たちの気を失わせてしまった。

「サラ!」

キーシャはサラに駆け寄って手首にかけられていた縄を解いてやる。よほど怖かったと見えて、普段キーシャに全く見せない気弱な顔でキーシャの腕をぎゅっと握る。
戸惑いつつも、よしよし、とサラの頭をしばし撫でてやってからキーシャは言う。

「とりあえず、この館から抜け出さないとどうしようもない。」

出来ればシェーンや兵士たちと逃げ出したかったけれど、彼女たちの居場所がわからない。
あとは彼女たちもなんとか知力と腕力によってここから抜け出してくれるのを願い、外で落ち合うしかなかった。
サラは絹の薄い布を身につけているだけだったので、そばにあった彼女の上着を急いでサラにまきつけると、彼女の手をひいてキーシャは駈け出した。





館の外に出ると、到着した時よりも雨脚がずいぶんと強くなっているようだった。
雨に打たれながら、とりあえずは足元に跳ねる泥も気にしないで走り続ける。
「逃げたぞ、追え!」という怒声が聞こえて、後ろから何人もの男の足音が聞こえる。決して体が強いとは言えないサラの呼吸が、はあはあと乱れているのをキーシャは感じた。
すぐに森に入ったが、しばらく走ってからキーシャは負けを認めざるを得ない。
館は切り立った崖の上に建っていて、彼女たちは逃げ場を失ってしまったのである。
崖を背にしながらキーシャは追ってきた男たちの方をキッと睨んだ。
男たちも彼女の勇名は知っているのだろう、不用意に近づいたりせず、一定の距離をとってじりじりと間合いを計っている。サラがキュッとキーシャの手を強く握るのが分かった。

「イキストエフ伯!」

急にサラが叫んだ。
キーシャもサラが見ている方に目をやると、確かにイキストエフ伯が武器を構えていきり立つ男たちの中から一歩踏み出した。
老人の白髪は雨のせいで痩せこけた頬にべったりとくっついている。雨の冷たさのせいか、はたまた裏切りの罪悪感のせいか、顔色は悪くさらに10歳は老けこんで見えるのだった。

「どうして!」

サラは叫ぶように言う。雨はどんどん強くなっている。

「すまない、すまない、サラ王女。」

まるで何かの呪文を唱えるかのように、イキストエフ伯は陰鬱な顔で言った。

「しかし仕方なかった。どうしようもなかったのだよ。」

やはり、とキーシャは思う。館に近づくにつれて、襲撃は重なった。目的地を知られているか、もしくはイキストエフ伯が敵と手を結んだか。
もしや、と思うキーシャの予感は当たってしまったのだ。

「タッツリアの連中は恐ろしい。抵抗すれば、この館の人間を全員殺すと言われた。私に、他にどうすることができたというんだ。」

イキストエフ伯が言葉を重ねるので、キーシャは片頬だけで笑って見せた。

「自分の命が惜しくてノエを売ったわけだ。それでも、あんたのその決断のおかげで戦争は起こり、ノエは踏みつけにされる。あんたが売ったのはこの王女だけじゃないんだ。
この館とひきかえに、ノエの人間が何人死ぬか分かったものじゃない。」

イキストエフ伯はそれを聞き、明らかに気分を害したようだった。

「一傭兵にわかったような口を叩かれるわしではない。」

と呟くように言ってから「やれ。」と右手を掲げた。
相手は膨大な数だった。キーシャのこれまでの経験にはないぐらい。それに、背後には守らなければならないものがあった。
それでも黙ってやられるようなキーシャではない。それぐらいの傭兵だったなら、今「赤猫」だなんて呼ばれてはいないだろう。

サラは、これが「赤猫」たる所以か、と納得した。目の前で繰り返される「惨殺」。以前見た彼女の戦いぶりとは比べモノにならないくらい、容赦のない槍の応酬。
それは確かに殺し合いで目をそむけたくなるものではあったけれど、なぜか、赤い髪を乱して戦う「赤猫」は美しかった。無駄のない動きは、舞のようにすら見えたのだ。
そして、「赤猫」たる所以は彼女の赤い髪のせいだけではないと知った。彼女は敵の赤い返り血で、真赤に染まっていったのである。
それでも、それでも、数の利は確かであった。次第に少しずつ傷ついて行ったキーシャは、敵の男の剣によって、左腕に深い傷をおった。
彼女の左腕から、さっと赤い血が立ち上るのを見て、ついにサラはいてもたってもいられず「キーシャ!」と叫んだ。
実は初めてキーシャの事を名前で呼んだのがこの叫びであったのだけれど、もちろんそれについて感慨に浸る余裕はキーシャにもサラにもなかった。
サラは叫ぶと同時に思わず身を乗り出した。
しかしひどい雨のせいで、足元はすべりやすくなっている。案の定、地面に足をとられたサラは後ろに倒れこもうとした。一瞬振り返ったキーシャの目は、珍しく動揺によって見開かれた。
サラの後ろは崖であったからだ。
キーシャは、もう武器を繰り出す男たちの事など見てはいなかった。急いでサラのほうに手を伸ばす。届くか、届かないか。
幸いなことに、キーシャはサラの手をつかんで抱きこむことに成功した。
しかし不幸なことに、その時二人は既に宙に投げ出されていた。
そのようにして、二人は一緒に崖の下へと転げ落ちて行ったのである。



「王女を殺すなと言ったろう!」
理不尽としか思えないイキストエフ伯の怒りにふるえた声が響く。
それから、諦めたように彼は、濡れた白髪をかきまぜた。
「この崖から落ちたら助かるまいて。・・・とりあえず、タッツリア皇帝に報告せねば。」
そう彼が呟くと、イキストエフ伯は部下たちと共に館に戻って行った。

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