第七話


暗闇の中にキーシャは立っていて、周りには何もない。
それだけでさみしくてさみしくて、キーシャは今にも叫び出しそうであった。
ぽっと遠くに灯りが点ったので、すがるようにしてそちらを見る。
その青白い光に目をこらしたキーシャは恐怖で目を見開いた。
光の中で人が殺し合っていた。男が斧を振るって、もう一方の男の胸から血が噴きあがる。キーシャは見ていられなくて目を背けた。
すると違う方向に光がともるのでそちらを見る。しかしやっぱり、その光の中で男たちは殺し合っている。
堰をきったようにあちこちに光がついて、あっという間にキーシャの周りは殺し合う人間でいっぱいになった。
殺し合うのは男ばかりでなくて、女も、子供も、怒りに目を狂わせ容赦なく武器を振るっている。
あまりの恐ろしさにキーシャはうずくまって膝を抱えた。
するとキーシャの左腕が急に裂けて、そこから血がほとばしる。
驚きと恐怖、それから痛みで彼女は混乱に陥った。ふと周りを見渡すと、先ほどまで殺し合っていた人間が血を流しながらこちらを睨んでいる。
まるでこの傷はお前につけられたんだ、と言わんばかりの血走った眼、眼、眼。
叫びたいのに、声が出ない。

恐怖に震えたとき、先ほどの青白い冷たい光とは似ても似つかぬ黄色い光がすっとさした。
その光は、まるでうららかな春の日の陽光のようにキーシャを温めた。
蜂蜜色をした、温かな黄色い光。
その光で、キーシャの心は温かさを取り戻していく。左腕の痛みすらも癒えるような気がした。
ありがたい。あの光はどこからさしているのだろう。

確かめようとそちらに目をやった時、キーシャはようやく目覚めた。







キーシャがゆっくりと目をあけると、青い空が目に入った。
それで自分が寝そべっていることを知った。キーシャは、なんでこんなところで寝ているのだろう、とぼんやり考える。
そばには川があるに違いない。さらさらと水の流れる音がする。空があって、川がある。間違いなくここは外だ。

しばらく考えてから、はっとした。
ようやくイキストエフ伯の館の建つ崖から落ちたのだという事を思い出したのである。
起き上がろうとしたけれど、戦闘のせいで体中が小さな傷を負っていたし、おまけに落ちた時の打撲もひどいらしい。
全身の鈍い痛みのせいで素早く起き上がることは出来なくて、ゆっくりと身を起こす。
そう、サラは。サラはどうしただろう。
まず自分の身体の状態を確かめる前にキーシャは思った。
サラも一緒に落ちてしまったはずだ。彼女はどうしただろうか。

あたりを見渡すと、誰もいない。キーシャの傍には彼女の身体の一部とも言える槍が置いてあるだけであった。
やはりすぐ脇を川が流れている。崖の下には川が流れていて、幸か不幸かそこに落ちた二人は流され、運よく岸にうちあげられたのであろう。
サラとは川ではぐれてしまったのだろうか。しっかり抱きこんだはずだったのに。

キーシャが唇を噛むと、すぐそばでがさっと音がした。

こんなところで、また敵か。

つくづくツいていない、とキーシャは舌打ちしながらうまく動かない体に鞭うって、槍を手に取り身構えた。幸い両足は深手の傷を負ってはいなくて、立ちあがることができる。
がさっ、がさっという音は川の傍の森から聞こえる。明らかにこちらに近づいている。


息をつめて待ち構えたキーシャは、サラがひょっこり森から顔を出したので、予想外のことにびっくりしてしまう。

「なんだ、サラ。無事だったのか。」

一息ついてキーシャが言う。安心したせいでへたりこんでしまった。いくら戦乱をいくつもいくつも潜り抜けてきた赤猫とて、体力はもうゼロに近かったのである。
動けなくなったキーシャにサラは駆け寄る。彼女がここまで弱っている姿は初めて見るのだ。一週間ずっと一緒にいたキーシャは、どんな時も背筋を伸ばして立っていた。

「さすがの私も疲れたよ。」

サラに向かって自嘲気味に笑う。それからサラの蜂蜜色がかった茶色い瞳を見つめて何故だかとても温かい気持ちになる。
キーシャはそれを不思議に思いながらも、今度はニッコリ笑って「とにかく無事でよかったよ。」とようやくお互いの生存を喜んだ。

「キーシャ、ごめんなさい、私・・・。」

サラは珍しく素直な表情を見せる。満身創痍のキーシャを前にどうしたらいいのかわからないようで、とりあえずへたりこむキーシャのそばで彼女の袖をちょっとつまんだ。
いくらお金で雇った傭兵でも、キーシャの働きはお金以上のものがあったのだ。うまく言葉を紡ぐことのできないサラを見て、キーシャはサラの髪をくしゃっと撫でた。
やわらかなブロンドの髪である。

「いいよ。命をかけるのは今に始まったことじゃないの。」

私の仕事なんだから、と笑う。サラはキーシャをちょっと上目遣いににらんだ。それが照れ隠しである事を、キーシャはちゃんと理解している。

「それよりも、何故森の中に?」
「これ。」

サラは手に握ったイチヤクの葉をキーシャに差し出した。イチヤクの葉は傷に効能のある薬草で、一週間の旅のおりに食べられる草花やキノコをレクチャーした際に一緒に教えたものだった。
キーシャよりも先に意識を取り戻したサラは、傷だらけの彼女のために森に薬草を探しに行っていたようである。
この事実にキーシャは純粋に驚き、そして喜んだ。顔をくしゃくしゃにして笑う。ここまで無邪気な笑いをサラは初めて見た。
いつもどこか少し自嘲めいた雰囲気の抜けない彼女もこのような顔をするのかと、少しドキリとする。
キーシャはイチヤクの葉をとても大切そうに受け取ると、あらためて自分の傷を検分し始めた。全体の傷は目を覆いたくなるほど多くて、
彼女を惨惨たる戦士に見せていたけれど一つ一つの傷はそれほど大きくない。応急処置をすればなんとか動くくらいはできるだろう。
ただ崖から落ちる前に切り裂かれた左腕の傷だけはどうにも深く、左腕を自由に動かすことはかなわなかった。左腕を布できつく縛ってから、キーシャは立ちあがった。

「さて、これからどうしよう。」
「どうしたらいいのかしら。」

サラも不安げに首をかしげた。こんな山奥で傭兵の女と二人きりなどという体験は、サラの人生の中で間違いなく初めての経験だろう。

「こんな所で座っていても誰も助けてくれはしないだろうなあ。」

キーシャは悩む。もしかしたらシェーンや、ノエの兵士がサラの事を探しまわっているかもしれない。
それならば待つのも一つの手かもしれないけれど、シェーン達が好ましい状況にあるとも一慨に言えない。彼女たちもまた、あのイキストエフ伯の館にいたのだ。
もしかしたら、キーシャ達よりも悪い状況にあるかもしれない。最悪には・・・。
そこまで考えて、キーシャは首を振った。そんな想像をしたところで仕方ない。とりあえず救助の望みが薄いのならば自分たちから動くしかあるまいではないか。

「サラ、やっぱり動こう。ここで待っていてはたぶん二人とものたれ死ぬだけだ。」

本当のところキーシャは自信がなかったのだ。強がってはみても、体の疲労と傷は確かだ。サラも少なからず傷ついている。
こんな二人が長時間、誰の保護もなくパブオン山脈の大自然を生き抜けるとは思えなかった。
もしキーシャ一人だったら、あるいは生きるか死ぬかただ自分の責任一つだけれども、今はサラがいる。この華奢な王女を自分が守らなければいけない。
金で結ばれた契約以上の使命感のようなものを感じていた。奇妙な感覚である。今まで彼女は、金の対価分しか働いたことなどなかったのに。

「でも、行くあてがないわ。」
「行くあてならあるよ。」

キーシャは川を見つめた。イキストエフ伯の館の建つ崖から落ちたのだとすれば、場所から推測してこの川はクルリス川だろう。だとすれば、ここから数日歩けば着くはずだ。
正直なところ、そこにサラをあまり連れていきたくはなかった。キーシャにとってそこはとても大切な場所だったし、もしかしたら、迷惑をかけるかもしれない。
サラがどうこうという問題では決してなくて、他人に触れられたくないモノというのは誰だってあるはずで、人の迷惑などというものをあまり考えたりしない今のキーシャにとって、
そこは唯一と言えるほど何としても守りたい場所だった。

だが、仕方がない。

今贅沢を言える立場に自分はないのだ、とキーシャは言い聞かせる。生きるか、死ぬか。とりあえずこれからどんな立場にたつとしても、今は体を癒すことが重要だった。
それだけを考えなければならない。

「行こう、サラ。」

キーシャは深刻な顔をしないように細心の注意を払ってサラに笑いかける。陰気な顔をしていても事態が好転するわけじゃない。だとすればせいぜいサラには不安を与えぬことだ。
そうして新たなる目的に向かって、キーシャはサラと共に川の下流へと歩いて行った。



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