第八話


歩き始めてすぐに、キーシャはサラの異常に気がついた。
疲労がたまっているから二人ともどうしても足の運びは鈍くなりがちなのだけれど、それにしてもサラの歩き方はぎこちない。

「サラ。」

キーシャはサラの肩に手をやる。その肩がびくり、と震えた。
いつもキーシャが触れようとすればちょっと鬱陶しそうに手を払いのけるというのに。
キーシャはしゃがんで、立ち止まったサラの左足を検分した。

「・・・なんで言わなかったの?」

眉尻をさげたキーシャはため息交じりにつぶやく。サラの、普段なら華奢でほっそりとした左足は通常の二倍ほどまでにはれ上がっていた。
履いていたのはブーツだったし、サラ自身が布でしばりあげていたので気付けなかったのである。おそらく、川に落ちたときにけがをしたものと見えた。

「・・・。」

サラは何も言わずに下をむいた。キーシャに迷惑をかけたくなかったのだろう。ただでさえ、イキストエフ伯の館での戦いで彼女は傷をおっているのだ。
キーシャがポン、とサラの頭に手を置いてやると案の定サラは頬をふくらました。

「大丈夫よ。見た目はちょっと・・・悲惨だけれど、歩けないことはないわ。見た目と痛みって、比例するとは限らないのね。
それにね、あなたのほうこそ大丈夫なのキーシャ。平気そうな顔して、強がっているんでしょう。」

いつになく饒舌である。人が普段と何か違う事をしてしまうときというのは大抵、体に異常があったり何かを我慢していたりする時だ。

「折れてはいないみたいだけれど、大事をとった方がいいね。いざというときになって、一歩も歩けませんじゃ困るし。」

そう言ってキーシャはサラに背中を向けてしゃがむ。
最初その姿を見てきょとんとしていたサラであったが、それが背中におぶされという意味だとわかると頬を紅潮させた。

「必要ないわ。歩けるもん。それにこれ以上迷惑かけたくないの。わかって。」

サラは女性にしてはちょっと広めの、それでも女性らしい柔らかなラインを失っていない背中に向かって一息に言う。
そこから「おぶる」「おぶらない」でひとしきり問答をしてから、「仕方ない」という風にキーシャがため息をついた。
ようやく分かったかしら、とばかりにサラは満足気に笑ったのだけれどそれは一瞬のことであった。
キーシャが、有無を言わさずサラを抱き上げたからだ。
顔を真っ赤にしたサラをよそに、キーシャが鼻歌交じりに言う。

「軽い軽い。こんなの、私にとって見たらその辺の小石を片手に歩いているのとかわんないよ。別に負担なんかじゃないんだから。」

キーシャはニヤニヤ笑って見せた。

「わかったから、下ろして。こんな格好で歩かれちゃたまんないわ。おぶさるから、下ろして。」

足の痛みも忘れたかのようにサラが暴れるので、足に痛みが伝わらないように彼女をゆっくりと下ろしてやる。

「やっとおわかりもうしたか。今無理をされるよりも、今のうちに休んで少しでも歩けるようにしてもらわなくては。サラ王女は聡明だけれど、たまにちょっと判断を誤りますな。」

大仰な言葉をしかめつらしく言った後、サラに向かってウインクしてみせる。
サラは拗ねてそっぽを向いてしまったけれど、キーシャにしてみればこの最悪にほど近い状況に追い込まれた中にいては軽口の一つでも叩かなければやっていられなかった。
キーシャもサラに負けず劣らず見栄っ張りなのだ。それにキーシャがおどけていられる内は、サラも不安に押しつぶされずには済むはずだった。






このようにして、キーシャはサラをおぶりながら、サラはキーシャの背中の上で、一週間の旅の延長を始めたのであった。
おぶっていても両腕が使えるように、キーシャは辺りに生えていた草を手早く編んで簡易のおんぶ紐のようなものを作り、それでサラを自分の背中にくくりつける。

歩き始めた最初、二人は無言であった。とりあえずキーシャに行くあてがあるというだけで、それ以外は最悪の状態にあるのだ。
シェーンや同行していた兵士たちの行方どころか安否すらもわからない。
心配事はそれだけでなく、今サラの国であるノエ公国がどのような立場に立たされているのか全く情報が入ってこない。
サラはひたすら父が統治する彼の国の事を、それから今までずっと一緒にいて守り続けてくれたシェーンの事を心配していた。
キーシャはそんなサラの重圧と不安を背中越しにただ感じていた。彼女は彼女で、不安があった。

―――これから行く場所は―――キーシャは瞑目する。これから行く場所は体を休め、ある程度の傷を癒す事は出来るだろう。
でも、それからどうしたらいいというのだ。
一傭兵であるキーシャに課せられた任務というのはサラを守ることだけだったのだ。
こんなことなら、ふらふらしてないでスタンシャンパインやシェーンの言葉をちゃんと聞いておくのだった。

しばし、二人ともそれぞれの物思いにふけっていたのだけれどやがてそれも無駄だと悟った。
ただでさえ傷だらけで萎えてしまいそうな体を抱えながら、暗い気持ちで歩いていたら心までも萎えてしまいそうだ。

キーシャは明るい話題を探す。そして、キーシャもサラも実のところお互いの事を何も知らないのだということに思い至った。
一週間一緒にいながら、何を今まで話していたのだったか。
これからこの絶望的な状況を二人でなんとかしなければならないのだから、とにかくお互いもうちょっと歩み寄るべきだろうと思った。

「サラはどんな食べ物が好きなの?」

まず食べ物の話題が頭に浮かんだのは、実際空腹のせいだった。イキストエフ伯の館で一度まともな食事をしたもののあれだけで体力が持つはずもない。
サラは唐突な話題に最初びっくりした。それでも「そうね・・・。」と呟いた。
以前の彼女では考えられない反応だけれども、彼女自身堂々めぐりの思考から抜け出す契機を待っていたのである。

「そうね・・・私フリッカデリが好きなの。」
「フリッカデリ?何それ?」

キーシャが不思議そうな声で聞く。はじめて聞く単語だった。

「ノエの伝統的な家庭料理なのよ。羊の肉のミンチを小さめに丸めたものでね。
普段あまり食べられないのだけれど、私がたまにお願いすると料理長のヤックウィックが作ってくれるの。お父様に見つからないようにこっそりね。」

少女のそれらしい華やかで楽しげな声音を聞くと、キーシャまでも楽しくなってくる。
フリッカデリはかなり庶民的な料理らしく、普段王族の食事に上ることはないらしい。それでも町を視察した時偶然食べたのがきっかけで、好きになったのだとか。
サラ好みのフリッカデリが作れるようになるまでヤックウィックが何度も作ってくれたのだと、サラはとてもうれしそうに語った。

「へえ、ヤックウィックはなかなかいい男みたいだね。」

キーシャが笑うと、「あら」と背中でサラが声をあげた。

「ヤックウィックは女性よ。とっても料理の腕がいいの。私、彼女が作るとあんまりおいしくて食べすぎちゃうのよ。」

くすくす、とサラが笑う。きっとヤックウィックの事を思い出しているのだろう。
普段のように顔を突き合わせていない分、サラとキーシャの会話はかつてないほど愉快で楽しげだった。
サラ自身、とりあえず自分をおぶっている女が傭兵だということを忘れようと努力しているようだった。
その思いを感じ取ったのか、はたまたあえて会話の調和を乱すことを良しとしなかったからなのか、とにかくキーシャが自分の仕事の事を詳しく語ることはなかった。






キーシャは目の前を遮る小枝を右手に握った槍で薙ぎ払いながら、サラが楽しそうに話すのを笑って聞いていた。
会話の内容はとてもささやかなものだったけれど、多岐に渡った。このとき初めて、実は二人は二歳しか年齢が違わないのだとキーシャは知った。
彼女はサラの事をずっと年下の少女だと思っていたのだ。

サラは自分の大好きな花の香りの芳しさや今まで見た劇や物語の素晴らしさ、まだ年若い弟のこと、それからいつも歌う歌について生き生きと語る。
ノエの人間は皆歌と踊りが大好きなの、とサラが言ったあとキーシャはポロリとつぶやいた。

「へえ、私も歌は大好きなんだ。聞いてみたいな。」

催促するつもりはなかった。それでも、キーシャがそう呟くとサラは「じゃあ歌いましょう。」と返す。
まさか一国の王女が自分のために歌ってくれるとは思っていなかったキーシャは驚いたけれど、何も言わすにサラが歌い出すのを待った。

サラは軽く咳払いをした後に、ゆっくりと、ノエの国民ならだれもが知っているというその歌を歌ってくれる。
彼女の声はまるで透き通るように美しく、それでいて何故だか少し悲しげな響きを持っていた。
キーシャはその声に聞き入ってしまい、先ほどからただひたすらに動かしていたはずの足を思わず止めてしまった。

サラが歌い終えると、キーシャは腕が痛いのも忘れて拍手していた。

「いい歌だね。それに声がすごくきれいだ。」

キーシャが称賛する。
彼女は、その後サラが照れたように「そんなことはないわ。」だとかいって謙遜しつつも嬉しそうに笑うものだと思っていた。

「・・・・。」

しかし、サラは何も言わない。
疑問に思って耳をそばだてると、ぐすぐすと鼻を鳴らす音が聞こえる。

サラは、泣いていたのだ。

おそらく故郷の歌を歌っていたら、故郷の事を思いだしてしまったのだろう。
彼女の話を聞いていれば、サラがノエ公国やノエの人間のことをどれほど愛しているのか痛いほど伝わってくる。
彼女はそのノエの危機に胸が押しつぶされそうになっているのだ。そういえば今まで、彼女の涙を見たことはなかった。
だからサラは王女らしく強い人間なのだと思っていたけれど、サラだってまだ年若い少女なのである。


キーシャはサラを背から下ろそうとした。抱きしめてやりたかったからだ。
それでも、サラは下りるまいとキーシャの肩をぎゅっと握る。
それはキーシャに弱みを見せたくないという意志よりも、一度誰かに涙を見られては自分の脆さが一気に流れ出てしまうのではないかという怯えであるようだった。
その思いを正確に悟ったキーシャは、彼女を自分の背から下ろすのをやめて、肩をぎゅっとつかむキーシャの手の上に痛みに強張る自分の左手を重ねた。

それから、手を重ねたままキーシャは再び歩き出した。
しばらく森を突き進む二人の周りには、キーシャが小枝を薙ぎ払う時にだす音と、サラの鼻をすする音だけが響いていた。
サラが泣きやむまで、キーシャがその手を放すことはなかった。



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